この作品と出逢った時のことは、いつまでも鮮烈に覚えていて、忘れられない。「うたぬすびと」の、ひなたの身体の中に「世界」が流れ込んでくるシーン。気がついたらレジの前に立っていた。五十嵐さんすみません。この本を最初に買ったのは古本屋でした。でもその後すぐに書店で買い直しました。永久保存版として。
五十嵐大介という漫画家の事は、ずっと前から気になっていた。しかし書店では、漫画本はビニールに包まれているので、中身が確認できない。おかげで五十嵐作品と出会うまで、長い時間がかかってしまった。あのビニールは誰が始めたか判らんが、漫画の普及に大いに妨げになっている、と自分は思うのだが。
この作品と出逢った時の感動は、何よりも「自分と同じ事を感じている人がいる」しかもその人が「現役の漫画家として創作活動をしている」事を知ることができた、という事だ。五十嵐氏は「五感」で世界を感じることの喜びを描いた稀有な漫画家だ。インタビューを読んでいると、予備校時代に近所の神社に入り浸っているうちに、御神木や自然から何かを感じるようになった、という。自分もそうなのだが、そうした、感覚が世界に対して開きすぎてしまっている人間は、しばしば社会の中では生きにくいものである。五十嵐氏はよく自らを「よその人」と表現するが、その言葉の意味が痛いほどわかってしまう。
嬉しいことに、五十嵐氏の漫画は多くの読者の共感を得ているようだ。しかし、ネットを見ていると、勘違いも甚だしい悪口を書き立てているアホもいて腹が立つ。「ニューエイジ思想にかぶれた作風」とかいう輩がいるが、それは大ハズレもいいところだ。夏目房之介氏も「BSマンガ夜話」で、カルロス・カスタネダなどに通じる「西海岸経由」のジャンル、といった表現をしていたと記憶するが、(岡田斗司夫はもっと的外れなアホな事を言っていたが)頭でモノを考るしか能がない連中は、五十嵐作品の本質はおろか足下にも到達していない、と言わせて頂こう。
五十嵐氏は、誰かの思想やスタイルに影響を受けたり、模倣をしているではない。純粋に一人の人間(生命)として感じたことを作品で表現しているのである。
四季の風の匂いが判る人と、そうでない人がいるらしい。自分も子供の頃「春の匂いがする」とつぶやいて、友人達に笑われた記憶がある。その時までは、みな自分と同じように四季の自然を感じて生きているものだと思っていたので、それが理解されないショックは大きなものだった。風の研究を永年し続けている学者も、フィールドワークの中で村人からたびたび「風の匂い」という言葉を聞き、それが理解できずに様々な実験で風の匂い、とは何なのか分析しようとしたが結局わからず、くやしい思いをした、とある本の中で書いていた。風を愛してやまない研究者でも、「感じる」ことができない人には判らないらしいのだ。
科学で説明できない事を、すぐに馬鹿にする者がいるが、実はそういう連中ほど科学を判っていなかったりするものだ。科学者は、科学の向こうにあるものをちゃんと見ている、と自分は思う。
カスパー・ハウザーという、19世紀ドイツのある町に、突如として現れた少年がいた。彼は16年もの間、暗くて狭い牢獄に幽閉され、自分が何者なのか、また外界がどんなところなのか全く知らず「ニュルンベルクの孤児」と呼ばれた。そして、感覚が普通の人間に比べて、異常に鋭敏だったという。嗅覚、夜目、そして、引き出しの中などにしまわれている金属を感知することができたという。その異常感覚は、16年に亘りパンと水しか食さなかった事が原因といわれ、人間社会で生活を送り、肉や牛乳などを食するようになって、急速にその感覚は衰えていったという。もうひとつ面白い話で、アニメ「地球少女アルジュナ」の河森正治監督が、かつて自ら1ヶ月以上、肉と白砂糖をいっさい断ったところ「身体が軽くなって五感も非常にシャープになって面白い」と思ったが、過敏になりすぎて都市生活とのギャップを感じたそうである。
食生活ひとつとってもそんな訳だから、我々は、文明と呼ぶ便利な社会で生きるうちに、いつの間にか生命としての何か大切な感覚を退化させていってしまっているのは、間違いがない、のである。9.11や3.11の時にも、興奮した愛犬に引っ張られて、危機一髪難を逃れた、という話があるが(阪神淡路の時も、震災直前に犬たちがけたたましく吠えた、という話がある)人間はそうした本能が麻痺してしまっている、のである。
そして、五十嵐氏の漫画は、そうした、現代社会がともすれば見失ってしまう大切なものを思い出させてくれる、実に稀有な作品、なのである。
混迷の世紀の道端に、毅然として立つ道標。それに気づき初めている人たちも、増えている。しかし、その存在意義を理解しない人たちの方が、いまだに多い。
これからも、その圧倒的な表現力で、人類の閉じかけた扉を「開いて」いって下さい、五十嵐さん。