人は己の業の深さから、結局は自由になれないものなのか。体中から常に静かな青い 炎を発散しているような原田芳雄を見つめながら、ずっと考えていた。そして、思え ばこの人は、常に何らかの業に絡めとられ、しかしそれにもがくでもなく抗うでもな く、淡々と「そこ」へ向かっていく人間ばかりを演じ続けてきたのではなかったかと、 ふと思いいたった。「我に撃つ用意あり」然り、「陽炎座」然り、そしてこの映画また然 り。
酒も弱く煙草も吸えず刺青もいれず。およそ、ヤクザらしからぬヤクザに見える国広 は、しかし、その背負ってきた業の深さの故に、あまりにも純粋にやくざであった。 ヤクザという言葉の語源は博打の三枚からきている。8・9・3の最悪の三枚に擬し て、役に立たないこと。まともでないこと。用をなさないことを言い、それがいつか 転じてヤクザ者=博打打となり、現在の語となった。その本来の意味からいえば、国 広こそは一般社会では役に立たない(刑務所における技術指導で熟練印刷工となり、 運転技術にも長けてはいても)であり、まともでないものであり、まさにヤクザでし かない。そしてそのヤクザは、弟分を標榜する谷川が「国広さんは真面目すぎる」と評する、その真面目さのゆえに一級のヒットマンとなった。
これは、とてつもなく静かで、そして美しい「ヤクザ映画」である。そしてその静かさ の故に切ないまでに生きていくことの罪深さと向き合わせられる映画である。国広が 麻子の前に再び現れることはないのかもしれない。しかし、麻子はずっと彼を待ち続 けるのだろう。それが、己の業と向き合って生きていくという…ことなのかもしれない。