第40話の「月刊高校野球」が秀逸。
なんというか、ある事が「食事をするのと同じくらい当たり前」の人と「そうでない」人との間にある認識のズレに対して、当人達が「なぜズレているのか」をまったく理解できていないのが可笑しい。
例えるなら、毎日ノートに日記をつけている人に、
「日記を書き始めたきっかけは?」
「でも携帯で簡単に更新できるblogと違ってノートに手書きで日記を書くのは大変じゃないですか?どうして手書きの日記にしようと思ったんですか?」
「三日坊主になっちゃう人が多い中で、毎日書き続けてる訳じゃないですか。やっぱりそれだけ書くことが好きなんですよね?」
「blogや携帯小説を書く子達の中には本になったりする子もいるじゃないですか。手書き日記だと同じようなことを書いても誰にも読んで貰えない、悔しいとか複雑な思いがあるんじゃないですか?」
みたいな質問をされても、答えようがないよねえ、というような。
そりゃまあ世の中には「日記は人に読まれることを前提として云々」とかいう論を展開する人もいるわけですが、それって結局、「日記を書く事が日常に組み込まれていない」人間の中でしか成立しない葛藤なんですよね。
毎日ご飯を食べる理由を真剣に考える人はそう多くない(いないとは言わない)というレベルで、日記を書く人は日記を書く理由なんて考えないし、日記を書く葛藤なんて抱かない。
ザワさんの場合はその行為が「圧倒的多数にとって日常ではない」上に、ザワさんのモノローグが皆無なので、読者の視点はおそらく常に「それが日常ではない側」に置かれます。
でありながら、ちゃんと「ザワさん達高校球児の日常」を「日常」として捉えることもできる。
それは私には普通じゃないけど、でも君にはそれが普通なんだねえ。
という、視点の転換と許容とが自分の中に生まれる瞬間が気持ちいいなーと思う作品です。
だからこれを読んで高校時代に戻りたいとは思わないですね。
高校球児という「特殊な環境」の中の「普通」を、そういう風に楽しむ、のが、私は好きだな。
「主観と客観のズレ」を主観側からではなく客観の方から見せていこうとすると、感情移入とか共感とかの力を借りることができないので大変だと思うんですが、できればこの路線を変えずに頑張って欲しいです。
あと、この巻の見所はやっぱり、衝撃のザワさんチ・家族構成……!