医者として多くの人の臨終の場面に接し、いつも不思議に思っていたのは、日本の『代表的な』宗教である仏教が死の場面では全く無力であるという事実を見続けなければならなかったことである。坊主の顔をみれば患者や家族の考えることは、葬式をつつがなくやってもらうことであり戒名を少しでも安くしてもらうことである。とても魂の救済とは程遠い宗教、それが現実の日本の仏教である。もちろん、それは仏教の責任というよりも、魂の救済などハナから求めていない大多数の日本人の責任ではある。
欧米の修道院などでの修行と日本のそれとは決定的な違いがある。日本の寺での修行、特に禅宗、そして永平寺での実際の修行をこの本で知ると、そこに遍在する『暴力』というものの存在に驚かされる。横尾忠則が永平寺での修行をしたとき、僧侶の言葉の暴力に驚かされているが、今も変わらず殴る蹴るの暴力は茶飯事で、そもそも修行の始めから殴られることに文句も言えない。こうして『全く文句を言わない個』となって、初めて修行が許されるのである。寺の修行を日本の組織に置き換えると、日本を理解できる。官庁や会社では露骨な暴力こそないが、組織に文句を言わない人間しか内に留まることを許されない。
著者は1年間で永平寺での修行を終わらせてこの本を書いている。文庫本の後書きにはどうして永平寺に行く気になったかなども追記されている。この著書は寺での修行を正確に書いていて(食べ物を求めての殴りあい・栄養失調による脚気の発生、などという事実は私の想像を超えていた)他に類例がない。多くの僧侶が書いているゴマカシの修行記ではない。妻と子のために僧侶の資格を取ろうと奮闘する元トラック運転手の話には、少し泣ける。
この著者の精神遍歴がその後どうなったのかとても興味があり、次なる著作を首を長くして待っているところである。