たとえようもなく胸を打つ、パンソリという芸能にこめられたものに見られるように、きっと多くの芸能などの、シャーマニズム的な面というのは、こういうことを言うのだなあと目を開かされる思いだった。
たとえばチベット仏教のある派の教えの中などに、ぼくらの内から起こるどうしようもないような否定的な感情、怒り、恨み、悲しみ、など、常識的、分別的に「否定的」とされてしまう、そのような感情を、実際のところ、肯、否定抜きに、よくよく見たことがあるか、よく味わった試しがあるのか。と問われるところがある。
よく見る、とか味わう、というのはそういう感情に「浸る」、とか、感情にふりまわされることによって外へ向かう行動を取る、というような意味ではない。また、そのような感情を忌み嫌ったり、単に抑圧する、また罪深いと思ったりするという方向へ向かうことでもない。わき起るその感情の出所からして、その「実物」を「よく見る、味わう」ということ。すると、それはぼくらが慣れ親しんだ「もの」なのか。
また下記を読んでいて、この映画が「なぜ」感動的かに思い当る気がした。
『深い困窮を体験させられた朝鮮民族は、その苦悩、怨恨をはらすために、外へ向かわず、むしろ自己の内部に沈み込んで、一種の感情の和解に達しようとします。
「恨(ハン)」を粘り強く、「恨」を内的に深めることで、明るい生の地平を拓くところに、「恨」の美を見ようとする。
この体験は韓国語で「サキタ」(いい味に糖化、発酵させる)という動詞で表現できるようなプロセスである。
「暗い、否定的な感情と粘り強く取り組み、それを鎮め、浄化し、新しい価値体系へと発酵させて行く」絶え間ないプロセスである』(「神秘学入門」高橋巌著より)
映画の中で、父ユボンが残した言葉は、「恨に埋もれず、恨を越えろ」であった。