ちょっと表現はまどろっこしいかもしれませんが、まじめに取り組むといろんなことを考える材料を得ることができます。
ダイアン・アーバスという写真家が撮った肖像の話…自分のなりたいものになれない人々の肖像。自分に与えられた社会的役割からはみ出してしまう人(リズ・テーラーの格好をした主婦)、そもそも不可能な願望を持った人々(ゲイとか猿の母親だという女性)…そうありたい自分と、全然違う自分がどちらも写っているのです。永遠に一致しない自己…これは人間存在の本質であり、そのずれこそ自分自身なのではないでしょうか。
〜であろうとするほど益々〜でなくなること…そんな時にはどう考えればいいのか。
ル・クレジオ「悪魔祓い」を引きながら対象にされると姿をくらます程の未開民族の非現象性が語られます。〜であろうとする能動的指向に対し、対象にされること、見られること、意味を読み取られることを免れる受動的指向もあるのではないか。文明圏では誰もが〜であれと教えられますが、そうでない存在の技術もあるかもしれません。
つながろう。Q.何のためにつながるのですか? A.つながるためにです …状況にそんな問いかけをしてみたい人はどうすればいいのか。
他者性とはむしろ自己の離散と消失であり、他者は一面私を崩壊させるものでもあるのです。だから「私」にとってつながるのは良いがつながりすぎる必要はないのかもしれません。