記された文字が、記されたと同時に消されていく、ということが考えられるだろうか。書かれては打ち消されていく文字、というものがあると仮定して、たぶんそれは波打ち際の砂浜に書かれた文字。そういう砂浜のようなものを基底として、空白、と呼ぶことにした。そこに打ち寄せる波のようなものを、意思、とする。空白は世界である。意思は、徴候として、つねに〈表象するもの〉である。はじめに言葉(アサッテの人=りすん)がある。同時に〈運動〉(ロンバルディア遠景)があり、あとは〈運動〉だけがある。ガリレオをせせら笑うかのような、仮装されたプトレマイオス的転換に、われら近代の見慣れた風景が、雪崩を打つように陥没して、ありうべき歴史的時間は、渦巻き状に降下していく。内在は超越であり、現実は虚構であり、現前は消滅であり、覚醒は昏睡である。過去が未来で、かつてあったことは最初からすでにない。〈書かれるもの〉が〈書くもの〉を名指す。これはテーマではない。りすん系。はじめに言葉があり、あとは〈運動〉だけである。悪循環…。悩ましいウロボロス的悪循環は、短篇集『領土』の中で、何度も何度も、反復される。たとえば「真珠譚」では、眉間にあるミズボーソーの傷跡(巨大隕石衝突によるクレーターとのめくるめく対比)を中心にして、〈ぼく〉が裏返って球体(真珠)になってしまう。滝の落下としての陥没・入れ子状の無限収縮あるいはクラインの壺。世界がパノラマである、そのような視覚の欲望にとっては、世界は無時間を志向する。パノラマが空間として無限であるのは、そのためだ。ここでは、主体は〈夢見る主体〉であることを強いられる。バロックとはその謂であろう。無限に展開するパノラマ(幻燈、走馬灯、紙芝居、覗きからくり=movie,motion picture,cinematographe)を無時間の中で漂いつつ、ただじっと見つめるだけの視線は、「ルドンの眼球」なのであり、「純粋理性」を嗤うベラスケスのラスメニナスが、まるで自らを否定するために身をよじるように構成していた「純粋視‐線」(=アスペクト)なのである。これがエンターテイメントだ。