テレビ局の仕事に忙殺されて、私生活を省みる暇もない主人公の早川俊平。
ある日、偶然に知り合った耳の不自由な響子に魅せられていく。
紙に書くことでしか意思の疎通ができないふたりの様子がもどかしくも巧みに表現さ
れている。
音のない世界は優しく穏やかだ。
慌ただしい生活を余儀なくされている俊平は、喧噪から隔離された世界に暮らす響子
に癒されていく。
この物語の中では驚くほど音がしない。
その代わりに描かれる情景は色彩豊かで、その時々の空気まで感じられるよう。
そういった意味では実験的小説かもしれない。
こんなに静かな音のしない小説は初めてだ。
俊平の視点で話は進んでいくのだが、
読者の耳は響子が感じているであろう静かな空間を漂うという不思議な空気に包まれる。
響子とのかかわりの中で俊平は、言わなくてもいいこと、
伝えなくてもいいことを取捨選択していくようになる。
言葉の重みを実感していく。
「悪人」や「さよなら渓谷」に比べるとストーリー展開は地味で変化に乏しい。
俊平の意識の流れのようであって、物足りなさを感じる人もいるかもしれない。
また、吉田修一さんが意識的にしていることかもしれないけれども、
言葉を発することのない響子の印象が薄く、存在感がない。
幻のような、不確実な人間に描かれている。
そのせいで響子のミステリアスさがグッと増していることも事実だが、
その実、物足りなかったりもする。
心が通じることと、相手の素性を知ることはまるで別物であるという
現実にも起こりえそうな、ちょっと恐ろしい展開に
吉田さんの底力を見せつけられました。