終戦時最後の空母機動部隊の後裔(第三艦隊、空母天城・葛城・龍鳳だが、解体され陸上航空隊化)である攻撃254飛行隊長、肥田真幸海軍大尉の戦記である。大尉は昭和18年7月1日付きで331空飛行隊長に着任。スマトラ方面に最新鋭の「天山」艦上攻撃機装備部隊を率いて進出した。当時24歳、海軍最年少の飛行隊長であった。以後、トラック楓島からグアム、パラオ、ニューギニアと部隊を率いて転戦、終戦まで第一線部隊指揮官として奮闘した。自身何度も出撃しては危地に陥り、特攻隊編成では自らを隊長として編成までしたが、最後まで生き残った。
終始部下と一体になって錬成に励み、来攻する米空母機動部隊を何とか阻止せんと、必殺の雷撃訓練に心血を注ぐが、それこそ幾度も幾度も、部隊は壊滅し、手塩にかけた沢山の部下を失い、貴重な第一線戦力を喪失しながらも、その都度何度でも、不屈の闘志で精鋭雷撃隊の再建に奮起する。淡々とした筆致ながら、部下将兵が多く飛び立ったまま還らず、また目の前で戦死や殉職していく中で、ある時は初歩練習機しかなく、ある時は爆装零戦の急降下爆撃隊長に回され、それでも腐らず精一杯に最善を尽くす姿が描かれている。
その成果は終戦前夜の8月14日でさえ、40数機の可動状態の「天山」を保有し、機材・燃料も豊富で、殆どのペアが夜間雷撃が可能な錬度に達していたいうから驚嘆に値する。並々ならぬ指導力と熱意を持った有能な指揮官だったことが窺える。掛け値なしに終戦時の最精鋭部隊の一つであっただろう。
ただ、特攻で部下を亡くすことだけはよほどこたえたと見え、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈するなどした有名な第二御楯隊に「天山」特攻隊を派遣しているが、以後は絶対に特攻使用しないように強く上層部に具申している。そして熟練搭乗員による夜間雷撃の反復での戦果拡大を主張しており、この点は艦上爆撃機「彗星」装備の「芙蓉部隊」と軌を一にする。
肥田大尉の、自ら先頭に立って出撃し、訓練を実施し、幾度部隊壊滅の辛酸を舐めても再起に全力を尽くし、終戦時まで高い戦力を保持した功績は非常に大きい。更に部下を厚く思い、終戦後の処理にも部下に愛情を示し、米軍に「天山」を引き渡す前に部隊最後の飛行訓練を実施する場面の描写には目頭が熱くなった。大尉だけでなく、圧倒的劣勢と機材枯渇状態の中でも、必死に補給と再建に全力を尽くした整備兵や主計兵の裏方の努力にも触れられ、全将兵一丸となって、戦局打開と各自の本文を尽くす姿には、ただ頭が下がる思いがする。
この未曾有の国難の現在の日本に、学ぶべき指揮官と組織の姿を教えられるような気がする。