ヴォネガットとは「距離」ということがとても重要な作家だ。
プレイヤーピアノではキャラと作者の距離が近すぎて、ちょっと一辺倒でのっぺらぼうとした出来になっている。
老人の自伝的回顧録を主な手法としたこの作家の多くの作品は、
キャラと作家の距離がありすぎて、これもまたすこしばかり一面性が強すぎる。これはどうしてだろう?
でもタイタンの妖女ではキャラと作者の距離は奇跡的なバランスで保たれたまま完走する。
これはちょっとした脅威だ。
そしてスローターハウス5ではキャラと作家としてのヴォネガットが、
個人としてのヴォネガットを双方に引き寄せ合おうといがみ合っている印象を受ける。
そのおかげで、SH5は驚異的というか暴力的なまでの距離感を保ったまま見事でおもしろい作品となった。
ここまではいい。
だけど、SH5で個人としてのヴォネガットは半分に引き裂かれてしまった。
作品世界に取り残された個人=ヴォネガットと、現実にかろうじて帰ってこれた個人=ヴォネガットにわかれてしまったのだ。
故に以降の作品でヴォネガットがタイタンやSH5のような奇跡的な距離感で作品を書き上げることは最後まで、そう最後までなかった。
個人としてのヴォネガットの力が半分以上に減ってしまったのだから当然かもしれないけれど、
これはちょっとした悲劇だ。
チャンピオンたちの朝食でわざわざ作品世界に作家として自分を登場させておきながら、
小説と肉薄できなかったヴォネガットの苦しみを思うと、とてもつらい。
だけど、この青ひげは半分に裂かれたあとのヴォネガット作品のなかでは、
比較的キャラと個人=ヴォネガットと作家=ヴォネガットの距離感が全盛期とまではいわないけれど、
うまく取れている作品だろう。
周囲の評判はそれほどよくはないけれど、手法に溺れることなく、
なんとか最後まで泳ぎきれた数少ない作品であることはたしかだ。
ヴォネガットが生き別れたもう半分の自分と、最後まで出会えることがなかったことを考えると、
この作品での主人公のラストにちょっと違う印象を持てるかもしれない。