クマ、なのである。
語り手がホッキョクグマなのだ。
読み始めて、まずおどろいたのはそのことだった。
それも、ただのクマじゃない。
第一章「祖母の進化論」の「わたし」は人間の言葉を話し、連日会議に出席しながら、かつてサーカスの舞台に立った経験を自伝にしたためている。
では単純に、擬人化された動物の物語なのかと思っていると、そういうわけではないらしい。
第二章「死の接吻」は、女曲芸師ウルズラ(人間)の視点で語りはじめられる。
ある日、ウルズラのサーカスに、第一章の主人公「わたし」の娘であるホッキョクグマ「トスカ」がやってくる。
新しい演目の練習を重ねるうち、ウルズラとトスカの間に、ふたりだけの奇妙でやすらかな時間が訪れる。
第三章「北極を想う日」の語り手は、トスカの息子「クヌート」である。
母親が育児放棄したため、動物園の飼育係によって育てられたという設定は、実在し、世界中でニュースになった同じ名前のホッキョクグマと同じだ。
クヌートの成長と共に、しだいに曖昧になっていくクマと人間の境界線をたどりながら、ふと考え込んでしまう。
言葉とは、書くとは何か。
種族とは、ルーツとは。
背表紙を閉じた後も、雪のように真っ白な毛皮の残像と共に、そんな疑問が頭のなかをぐるぐる回ってはなれない。
と言って、けしてかたくるしい文章ではなく、数ページに一度はくすりと笑いたくなるような、楽しい文体で書かれているのが多和田葉子の魅力。
ああ、もう読んじゃった。また読みたいなあという読書の幸せをたっぷり味わえる小説。