雅子さまが直面している困難と彼女に対するバッシングについて、複数の著者が色々と論じている本だが、同時に「皇室の論じ方」の現状についても問われており、これがとても面白かった。
森暢平氏がまず、今上天皇家が国民主義的な「主体化」を徹底しすぎた(皇室を「開き」すぎた)果てに、皇室を語ることに対するタブーが薄れ、皇室が超越的な権威ではなく大衆個々人が「自分語り」をするためのネタに堕しつつあることを論じ、これをうけて、雅子さまの困難を我が事として共感し語ってしまう人々の心情を、香山リカ氏が雅子さまに批判的な一般労働者の視点から、白河桃子氏が「プチ雅子さま」であるキャリアウーマンの視点から、それぞれ分析する。
他方、小田嶋隆氏は、それでもなお皇室について語るための言葉の不自由をパフォーマンス性たっぷりの文章により表現し、この皇室をめぐる不自由感・圧力感こそが雅子さまを苦しめている当のものだと巧みに主張する。そして、水無田気流氏が究極のスーパーウーマンがなお上昇婚するための嫁ぎ先としての皇室が、しかし「我」をもった仕事のできる女性にとっては可能性の抑圧としてしか機能しないことを分析、また、湯山玲子氏が、それでも「ヤンキー気質」があればその抑圧と闘っていけたかもしれないと、紀子さまの異常な適応ぶりとも比較しながら論じてみる。
さらに、最後の信田さよ子氏の論考が非常に興味深い。皇室の現状は、近代家族の崩壊後の我々の未来を象徴するものだという観点から、「妻」「母」にばかり負担をかけていては立ち行かないポスト近代家族を支える重要なファクターは「ケアする夫」であり、皇室に関してはむろん皇太子の活躍ぶりに、今後のご一家の命運が託されている、としめる。DV夫という害悪の実例を多数観察し、現代家族における夫の価値を問うことに鋭い信田氏らしい見解だと思った。