原作では主人公が虐待を止めたいと思いつつも
メグが苛められる様子を”喜んでいる部分”もある描写が
すっかり消えているのが少し気になりました。
どんな人の中にも気高い部分も善良な部分も
汚い部分も醜い部分も入り混じっている、
好きな女の子を酷い目から救いたいという部分も本当だし
虐待される様子に興奮する部分も本当。
どちらが本当の主人公、なんて話ではなく
高潔な部分も薄汚い部分も混在しているのが人間。
その自分の中の薄汚い部分を「あってはならないものだ」
「消し去らなければならない」と否定して消して
綺麗に清らかになろうとするのではなく、
薄汚い部分を「そういう部分も自分の中にある、確かにある」と
自覚した上で、目を逸らさずにしっかり見た上で、
それを制御しなければいけない。
自分の中にある汚い部分を「消そうとする、最初から無い事にする」のではなく
「しっかり自覚した上で、制御する」のが本当に倫理のある人間。
映画では「虐待する人間達は心底の悪。最初から悪。
主人公達は清らかな善人。悪い部分なんて欠片も無い。
虐待する人間達は”あちら側”。主人公達は”こちら側”。
まったく違う人間なんですよ〜。虐待する人なんてモンスターですよ〜」
という描き方なので逆に恐怖感が減っているような?
自分の中にある汚い部分を「そんなものは最初から無い。私は清らか」と
目を背けて否定していると、何かの弾みで”あちら側”に落ちかねないよ、
”あちら側”は遠い世界でも違う人間でもなく、貴方のすぐ側に地続きで繋がってるよ…。
というのがケッチャムの書いた恐ろしさだったので、
映画もその雰囲気を継承していればもっと良い作品になったと思います。