最初は『
凡庸さについてお話させていただきます』の路線かなと思ったが、「5」あたりから微妙に著者の個人的な経験や回想の濃度が増していく。磯崎憲一郎を扱った「10」以降が特に顕著で、時間的厚みを与えられた「わたくし」を主語としつつ表象作用の意識化というか吃音化というかを論じ、著者と話者の齟齬と偏差に注意を促す文章群は、それ自身が小説を擬態することで小説の言語に拮抗しようとしているかのようだ。著者の読者層を大きく広げたという意味で「批評家」としてのデビュー作とも呼びうる『
反=日本語論』、あるいは近作では『
ゴダール マネ フーコー』と感触が似ていると私は思うし、いや、そもそも著者の映画批評の文章ではむしろそれが常態であり、また魅力でありスノッブな臭みでもあったかもしれない。
それにしても著者は1936年4月生。踏み込み過ぎを承知で言えばすでに御父君の享年を超えており、エディプス的な解釈を施すまでもなく著者が人生の締めくくりについて強く意識していることは近年の発言や刊行物から十分に窺える。「11」にも不意に『「ボヴァリー夫人」論』への取り組みの様子が記され、永らくその完成を待ち望んでいる者としては微かな安堵を覚える一方、『「ボヴァリー夫人」論 草稿』などという出版形態にならねばよいがと、これも無礼な懸念が湧き上がったりもする。「15」末尾の、「批評家は、社会の教育的な刺激そのものをあれこれ批判する資格など持ってはいない。(中略)批評家に許された数少ない振る舞いは、その刺激が豊かな多様性を見失い始めたとき、その瞬間を黙って指さすことぐらいだろう」という言葉なども、確かに著者は以前にも何度か同様のことを口にしていたとは思えるものの、それはそれなりに、例えば吉本隆明に問い詰められてとか、ある種のクリティカルな契機においてだったとも記憶する。
ただ残念なのは帯の裏表紙側に記された、これは編集者の売り句だろうか、その末尾に「新たな思索と快楽を軽やかに綴る好著」とある「好著」の一語。「傑作」と訴えるならともかく、一体どこのバカ編集者が自社で刊行する蓮實重彦の本の帯に「なかなかのもの」などと偉そうな評価を下したのか、始末書ものだと私は思う。ただしこれが著者自身の手になるものならば、一つの諧謔になる。