凄まじい名著。教育のなかにどのような格差、階層差が生まれているのか。早い段階から私立校で英才教育を受ける子供たち。学級崩壊する学校でやる気を失っていく子供たち。その違いは何であり、どこから生まれたのか。本書は教育における格差問題を扱う。その扱い方は徹底して科学的だ。つまり、調査結果に基づく統計データを様々に利用し、議論を組み立てていく。この議論は極めて説得的である。もちろん、それは著者の見解がすべて正しいことを意味するわけではないが。
本書は教育における格差問題を、統計データによって定量的に明らかにした。だが本書の価値はそれに尽きない。もう一つの論点は、そのような格差を見えなくしてきたものは何か、という問いだ。教育に関する我々の理解を問う、メタ的な視点である。これを巡り、著者は日教組の全国集会の記録を丹念にたどっていく。この文献学的視点は、驚くべきものだ。個人的にはここに魅力を一番感じた。
著者によれば、我々は次のような時代を生きている。戦後、主に農民層が教育を受けられるようになった。こうして(ほとんど)誰もが高等教育まで受けられる、大衆教育社会が生まれた。このことは、本来背後に存在しているはずの格差を見えなくした。かくして、教育の問題とは、実際の格差(階層、人種、性別等)に基づく差別ではなくなった。そうではなく、個人の能力に基づいて個人を序列づける、能力主義が教育問題となった。社会階層の裏付けを持たないことの差別は、<差別感>の問題というように、感情の問題になってしまった。差別感を持たせることがすでに差別であるから、そのような差別感について論じること自体が差別感を持たせる。かくして、教育論議から学問的議論は消失したのだ。
だが、議論が消失しても格差は消えるわけではない。誰に対しても平等に処遇する、という日本の奇妙な「処遇の平等」。これは機会の平等でも結果の平等でもない。それが証拠に、処遇の平等の背景で、できる人は優秀な私立校へと「逃げていく」。著者の言う「ブライト・フライト(優等生の逃避)」が起こっている。かくして、処遇の平等を求めることは、実際の処遇の差をますます深めていく結果になるのだ。皮肉な結果である。
著者の議論は、さらに「努力」の問題へ切り込む。個人の能力でなく、努力の問題。どれだけ意欲を持ち、努力するかすらに、ある程度、階層差が見られるのだ。そして「自己責任社会」の下では、努力する・しないは個人の問題だ。個人は、努力の結果を引き受けなければならない。だが、そもそも努力に階層差があるのなら、これは個人の問題ではありえない。この点を隠蔽した結果はどうなるか。努力しなかった人は、社会の要請通り、それを自分の責任と引き受けてしまう。つまり、努力しなかったその結果に満足し、安住してしまう。階層的に努力の差があると見られる人ほど、「自分にはいいところがある」と自信を持ってしまうのだ。こうして、意欲・努力そのものの階層差が広まる。「意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)」の成立である。
「努力」という極めて個人の資質とされてきたところまで広まる格差。そして未だにそれを覆い隠す、教育論議。この本には、スタートラインから格差が付き、そして挽回のチャンスが減ってきている日本社会への憤りと、それを認識・理解しない教育論議への痛切な批判に満ちている。著者はこの社会への対処法を描いている。多様な教育機会を可能にするキャリアファンドの設立だ。ともあれ、本書の主眼は分析と批判であることに変わりない。
もちろんのこと、本書の分析は完璧ではない。特に後半の、努力の階層差についての議論。重回帰分析の読み方に、素人目にも疑問が残る。だがその批判は、同じく統計データの定量的分析をもってなされるべきだろう。本書のスタイルと圧倒的な説得力は、それを迫るのである。
教育において、定量的分析を用いた厳密な議論を避ける風潮。果てはその正当化に、「教育は数字では測れない」などと言われる始末だ。個人的にはそのような風潮を徹底して批判した本書に、すがすがしい爽快感を覚えた。まさしくこれが、実証的な研究がもたらす学問の力なのだ。だが本書が突きつけた内容は、そのスタイルとともに非常に重いものである。本書の内容を踏まえずして、教育について語ることは許されないだろう。