私は野中広務氏を深く尊敬する者である。
そして、著者の松田も野中広務を敬する気持ちを抱きながら、批評眼を失わない取材を続けてこの本を書き上げた。それは小泉純一郎を書いた著作と比べても明らかである。
松田が当初から野中寄りであったとは思われない。夜討ち朝駆けの突撃取材時の、野中との鬼気迫るやりとりから、やはり松田も野中の人柄に圧倒されたひとりなのではないか、と思う。
松田が、敬する野中の変節や弟の件を問うたのは、あっぱれな態度である。
この「変節」を解き明かすためには、ぜひとも小沢一郎を並べて書くことが必要だった。
いわば、小沢を書いたのは野中のため、なのである。ここにも著者の野中への思い入れの深さを感じる。
野中はむろん理想家ではない。理念がないなどと常に批判されてきた。
それは、松田の取材に詳しいように、理想をやっている余裕などなかったからである。常に満員のシートに尻をこじ入れて座るような、無理をしなければ道が拓けなかったのだ。しょせん、理想をやるのは坊ちゃんである。
その野中はいつしか「調整」や「事後処理」にすぐれ、坊ちゃんがやりたがらない汚れ役もこなすツワモノになった。
この人の行き方からすれば、当然の流れである。
ツワモノになってさえ、野中は「満員のシートに尻をこじ入れ」続けなければならなかった。
野中は確かに先をみはるかす千里眼をもたない。だから常に「事後処理」をしてまわる。
でも、考えてみてほしい。「千里眼をもつ人」も必要だが、「事後処理」を確実に行う人間というのも、同等に価値があるではないか。
それをやる人がいなかったら、いたとしても、的確に行わないとしたら、どうなるのか。
今のように、なるのである。今という時代は、「野中」のいない日本、なのである。
私は今こそ日本に住む誰しもが、「事後処理のプロがいない国」=「野中のいない日本」というものをかみしめてもらいたい、と思っている。