精神科医でありながら、サブカルチャー方面にも明るく著書も多数ある斎藤環。『
バックラッシュ! 』などの寄稿はあるが、本書は意外や意外、著者初の男女論(ジェンダー論)とのこと。帯には本書の論じる二つの主題が大まかに列挙されている。ひとつは「男女の違いは何か?」、もう一方は「どうして男女論にはトンデモ説が多いのか?」。個人的には二つ目が大いに気になるところ。
本書の構成を紹介しておこう。まず一章と二章では、ジェンダー論とその困難を論じ、さらに男女論の「トンデモ説」の実例の数々にメスを入れる。そして三章からは「男女の違いとは何か?」に対する著者の持論が展開されていく。
ただ、ジェンダーの「トンデモ説批判」が続く前半一、二章に関して言えば、どうもアンフェアという印象が残った。もじゃもじゃ頭の脳科学おじさんなどの理系分野の著作に僕は明るくないので他の評者にゆずるが、例えば内田樹批判の箇所は、わら人形論法というやつだ。著者は『バックラッシュ』の寄稿文以来、仏文学者の内田樹の身体論を批判している。内田の女性論と身体論は限りなく本質主義に近く、危うさが残るのは確かであるが、内田の「フェミ批判」が「本質には全然届いていない」(37p)というのは、斎藤らしからぬミスだろう。というのも内田は、つい数年前に出した『
女は何を欲望するか?』(後に新書化)の中で、がっぷり四つに堂々とフェミニズムを論じているからだ。それをたかがブログの一記事をとりあげて、あたかも内田がそれだけしかフェミニズムを論じていないように表現するところが、誠実な筆致だと思っていた斎藤の読者としては残念きわまりない。
さらに、精神分析に依拠すら著者の持論、男の「所有原理」と女の「関係原理」。詳しくは本書を開いてみてほしいが、前半部での鋭い他者批判(多少のチョンボあり)から読み勧めている読者は、目を疑うだろう。というのも、ジェンダー・センシティブを主張する著者でありながら、そこではおもっきり所有/関係という二元論を持ち出しているからだ。最終盤の方で著者はたしかにそのことを言い訳程度に書き添えてはいるが、ではなぜタイトルが「関係する女 所有する男」なのか。さらにいえば、本文中ではもう数えられないほど男を所有、女を関係と、なかば決定論的(例えばおたく、腐女子など)に論じていることはどう説明をつけるのだろう。
カール・ポパーの言う「反証可能性」を出されると、精神分析というのはきわめて分が悪い。この本を読んでいるうちに気がついたが、精神分析に依拠する著者って、絶対に自分が過去に出した説を曲げないよなぁ…。
たしかに、著者は『バックラッシュ』にて精神分析が「「予測」を旨とする科学的因果性とは手を切っている」としている。これは、精神分析を学ぶ僕自身も答えに窮する所だが、では著者が批判する「似非科学」と精神分析という「非・科学」、いったい何が違うのか、今のところはわからない。
ちなみに参考文献にはなかったが、以前読んだダリアン・リーダーの
Why Do Women Write More Letters Than They Post?もラカン派で、これと似た興味深い仕事をしている。