アマゾンからすすめられる商品、楽天から勝手に送られてくるメルマガなどが煩わしいので、おすすめ商品の表示機能はキャンセル、メルマガは全部オプトアウトしている。それでも私の購入履歴、閲覧履歴は全部「あちら側」に残っている。グーグルの検索ワードもグーグルメールにきたメールのすべてのテキストも「あちら側」にたまっていく。フェイスブックの「いいね」も、なにげなくRTするツイートもおなじである。
自分の中を通り過ぎた情報は、感覚的にいえば排泄物に近いのだが、そういう排泄物は「あちら側」では金になるそうだ。「あちら側」では排泄物を高度な技術で分解処理し、そこから「私」という人間をありとあらゆる角度から割り出す。住所、年齢、職業などは言うにおよばず、学歴、渡航歴、既往歴、交遊関係、家族構成、年収、趣味、性的指向、宗教、信条、IQ……といったもの難なく割り出せるだろう。そうやって細切れの情報をつなぎあわせて「私」をプロファイリングすることで、特定のものを買わせたり、特定の行動をとらせたりするように誘導することができる。
つまり私たちは「あちら側」と取引をしているのだ。タダでネットを使うかわりに、アイデンティティを切り売りしている。それらを「あちら側」はつなぎ合わせて、今度は私たちに金を払うよう仕向けるのだ。私たちのことを研究した彼らは、親密さと快適さを装って巧妙に近づいてくるから、私たちはその企みに気づかず、気持ちよく「あちら側」に金を落とす。
インターネットがすでにそういう取引の場になっていることは薄々は感じていたが、グーグルの検索結果が個人によって異なることや、フェイスブックのウォールに友だちの情報のすべてが載っているわけではないといったことを本書で知り、頼んでもいない「パーソナライゼーション」が想像以上に進んでいるのだなと、どんよりとした気持ちになった。こうした取引を通じて、どんな些細な情報も「あちら側」にわたってしまう。忘れたり、知らなかったり、知られなかったりした情報までもがどこかで掬い上げられて蓄積され、思わぬ形で「こちら側」の生身の人間が不利益を被る可能性もある。しかもそれに対してなすすべはいまのところまったくないのだ。知らないほうがよいかもしれないこと(昔の恋人のこととか)も知ることができるようになる一方、知りたくないことは遮断できる時代。でも、知りたいことだけ(つまり既知のこと)だけを選択して取り入れることで、未知への好奇心や耐性が失われ、知らぬ間に孤立していく。いろんな意味で、「知らぬが仏」はもう通用しない。
商品をすすめられたり、多少内向きになるくらいならまだいい。もっと深刻なのは、快適さや親密さと引き換えに提供した個人情報が本人の知らないところで蓄積され、そのデータをもとに本人が知りえない目的のためにプロファイリングが行われる可能性である。極端にいえば、フェイスブックで誰かを友達にしたり、ほとんど無意識に「いいね!」ボタンを押し続けているだけで、犯罪の容疑者にされるとか、採用の候補者から外されるとか、入学や保険加入を拒否されるとかいったことが起こりうるということだ。ある特性をもったグループをサービス対象から本人には知られずに「あちら側」から排除することができる。直接会ったり何かをたずねたりしなくても、その人物のことを調べ上げることができるということは、そういうことである。さらに恐しいのは、「あちら側」に蓄積された自分に関する膨大なデータの誤りや変更を本人が修正する機会がないことだ。ある時点での「私」のデータに死ぬまでつきまとわれる。過去は消せないと言うが、それは過去の行動が本人の手の及ばないところで逐一記録され、それをもとに勝手なふるい分けが行われることとはまったく別問題である。後者はかたちをかえた監視社会だ。こうした動きに敏感な人たちは、自衛するためにネットでの行動を自己規制するようになるかもしれない。自分でない自分を「演じる」ということである。しかしその自分でない自分の情報い基づいて、「あちら側」から送られてくる情報に、「本当の自分」は影響を受け(プライミング効果)、「演じた自分」と一体化していってしまう。ネットやめますか、それとも自分やめますか、の世界だ。
著者は、「あちら側」の世界の創造主にして運営管理人であるところのプログラマーやエンジニアが自分たちが「社会の未来を形づくる大きな力」を期せずして持ってしまったと指摘する。そして、ひたすら技術による「高み」を目指して昼夜を分かたずプログラミングしていればハッピーだった人たちに「邪悪にならない」レベルをはるかに超えた倫理観を持つことを求める。一方でユーザーに対しても、自分の殻にこもっている場合ではないと呼びかける。「あちら側」では、巨額の金を動かせる地球上で最強の企業群が結託している。際限のない個人データの収集と蓄積と濫用を防ぐために、規制が必要なことは自明だが、それが政治的にはきわめて困難な事業になることは目に見えている。パーソナライゼーションによって分断されることにより、公共という概念がどんどん希薄になっていくこと、政治のプロセスそのものが機能しなくなっていくこと、著者にいわれるまでもなく、私たちはこれらのリスクを常に念頭に置き、声をあげていくべきである。私たちが快適なインターネットバブルのなかでパンやサーカスに興じているあいだに、政府が「あちら側」にとりこまれている可能性は大いにあるのだから。