第7「ジャーリヤ経」(p.136〜162)は、二人の出家者の質問「霊魂と肉体は同じものでしょうか。それとも、霊魂と肉体は異なるものでしょうか」から始まる。それに対して世尊は、長部経典に共通する延々と続く説示次第を展開しながら、「二人が質問で述べた言葉は適切でない」と繰り返し述べるだけで終わる。すなわち、無記(説明されないの)である。
第9「ポッタパーダ経」では、同じ問いを含めた十無記(p.245〜247)が説示される。この経では、無記の理由を「邪見だから」、「正しい覚りのためにならないから」等と簡潔に述べられる。
本書の冒頭に置かれた著者の「ジャーリヤ」経梗概(p.11)によれば、
(イ) 「霊魂と肉体は同じである」⇔「色は我である」⇔「断滅論」(虚無主義)≡「無論」
(ロ) 「霊魂と肉体は異なる」⇔「我は色を有する」⇔「常住論」(永遠主義)≡「有論」
と「邪見」の意味を補足説明している。なお、「無論」≡「断見」、「有論」≡「常見」である。
ところで、著者は『パーリ仏典入門』の中で、<「律蔵」はウパーリ長老(持律第一)が受持し、「長部」はアーナンダ長老(多聞第一)が受持し、「中部」はサーリプッタ長老(智慧第一)が受持し、「相応部」はマハーカッサパ長老(頭陀第一)が受持し、「増支部」はアヌルッダ長老(天眼第一)が受持した(p.30)>と述べる。理由は分からないが、アーナンダ長老が受持した長部経典の特徴は、文章が長い割には、世尊の解説が少ない。これはパーリ仏典長部『戒蘊篇 1』でも感じたことである。禅の公案に近い。
実際に、パーリ仏典中部『根本五十経篇 2』の第44「小有明経」(p.344)の説示では、自我を< (1) 五蘊は我である、(2) 我を五蘊のある(付随する)もの、(3) 五蘊が我の中にある、(4) 我が五蘊の中にある >の四つに分類する。さらに、パーリ仏典相応部に対応する漢訳雑阿含経「巻第五(105)仙尼経」等の説示では、自我を< (a) 我[自我は五蘊と合一]、(b) 異我[自我は五蘊の外にある]、(c) 相在[自我は五蘊の中にある] >の三つに分類し、如来応等正覚見による「我の真相」を説いている。
三者の対応関係は、(1) ≡ (a) ≡ (イ) ≡ 「断見」、(2) ≡ (b) ≡ (ロ) ≡ 「常見」、(4) ≡ (c) ≡ 「常見」となる。(3)は「五蘊は自我の心の中にある」という意味なので、これは「唯識」 ≡ 「常見」である。
このように、中部経典では「邪見」の踏み込んだ解説をしており、雑阿含経典(相応部経典)では「邪見」の真相を説いている。
そこまでの解説がなされない長部経典の長い文章に惑わされない観察力が必要である。