「仏典は、およそ二百年間は暗記によって保持され、文字に写されなかった」という。そうであれば、仏陀入滅後の「第一回仏典結集」と仏滅後100年頃の「第二回仏典結集」では、現在のようなパーリ語五部経典が存在したかどうかは怪しいと言わざるを得ない。結集のその後については、仏滅後200年頃のマウリア朝第3代のアショーカ王がサンガの荒廃を憂えて開催したのが「第三回仏典結集」である。さらに、南方仏教の伝承では「第四回仏典結集」は仏滅後400年頃のヴァッタガーマニー王時代に開催されたとし、北方仏教の伝承では紀元2世紀頃のクシャーナ朝カニシカ王即位時代に開催されたとする。
このような曖昧さが残る「第四回仏典結集」以降に現在のパーリ語五部経典が登場したのかも知れない。
ブッダダーサ師は法話『神通力と奇跡』において、「私たちのパーリ語三蔵は、ある時代にシンハラ語(スリランカの言語)からパーリ語に書き写され、そしてシンハラ語の原本を焼却したことが明らかになっている」と述べていることから、そうした文証がどこかに残っているのかも知れない。
以上、長々と述べてきたのは、本書が長部の4冊目であるが、世尊の説法とは思えない部分があるからである。長すぎる説法の大部分にブッダの智慧の輝きが感じられないのである。むしろ、大乗仏典を読む時の雰囲気に近い。実際に、本書の第17「マハースダッサナ経」では「布薩」(自己反省し、罪を告白・懺悔する定期集会のこと)を説示しているのであるが、以下のことが分かっている。
1) 仏教における布薩は、当時のインド遊行者達に一般的な宗教儀礼を採用したものである。
2) 布薩は在俗信者を主体とする宗教行事であり、そこでは素朴な形の波羅提木叉が誦された。
3) 波羅提木叉を含めた教団組織の整備の進展と共に、出家と在俗信者の布薩は分化し、出家は在俗信者の布薩を主催すると共に出家のみの布薩を、整備された波羅提木叉に依って行なつた。
4) やがて布薩本来の趣旨は破綻を来たし、布薩そのものが形式化し、単なる儀式に変質した。