思えばかつて大田洋子『屍の街』『半人間』=原民喜『夏の花』=林京子『祭りの場』=中沢啓治『はだしのゲン』=『原爆の図』丸木位里・俊=峠三吉『原爆詩集』=井伏鱒二『黒い雨』に対して、何故?巨大な原爆に立ち向かうのにこんなにも数少ない作品でいいのかしらと疑問に思いながらも夢中になっていた頃、おそらく表現と告発の違いもまだ解っていなかったのでした。
それに、ほとんどの人がこういう傾向のものに何の興味も示さないことも。
「人間にハエがたかる。うじ虫がわき人間をつつく」
このとき、林京子の『祭りの場』は、私には、被爆という残虐な悲惨極まりない稀有な体験をありのままに書いている私小説としてだけでなく(それだけでも超一級の作品ですが)自立した優れた文学として揺るぎないものを感じました。
たとえエピローグが、「アメリカ側が取材編集した原爆記録映画のしめくくりに、見事なセリフがある。−かくして破壊は終わりましたー」という表現がやや直截だとしても、告発で何が悪い、当たり障りのない象徴的や芸術的昇華だけが文学じゃないんだと思ったものです。
ただこのあと、例の彼女へのわが中上健次の「原爆ファシスト」呼ばわりが元で遠ざかってしまいました。彼女の被爆者としての言及に、特権意識があるだのないだのどうでもいいことでしたが、そこは党派性をわきまえた私のことですから、やむなく中上健次の方に組したというわけです。
本書は、被爆が1945年8月に終わったわけでなく、肉体を破壊し傷つけただけでなく、心も傷つけ子孫まで傷つけ、そして人間だけでなく母なる大地をも傷つけたということを、自らを全人類の一細胞のように感じ、地球と共鳴して、被爆後65年の生の一秒一秒の検証のあかしとして書かかれています。
それにしても、14歳のいたいけな少女の被爆という体験だけでもとてつもない重荷なのに、その上にまだもうひとつ原爆と対峙するという、とんでもないことを65年間もかかえて格闘してきた林京子という人の強靭な精神には、否応なしに深く敬服せざるをえません。
記述日 : 2010年8月14日 07:22:02