小沼丹の顔写真をどこかで見たことがあるが、とても穏和な顔をしていて、見ていると心が和む。その温かい表情は、例えば、本書に収められている最初の二篇(「小径」「猫柳」)に感じられるさりげないユーモアと軌を一にしているようにも思える。ちなみに、個人的には、「小径」が一番好きな作品だった。
一方で、本書に収められている作品の多くには、肉親や知人の死にまつわる哀惜感も漂っている。ユーモアとペーソスの割合は、後半に収められている作品ほど後者の割合が高くなる。それらの作品は主人公のなんでもない回想に思えるのだが、ある箇所でハッとさせられることになる。巧みな比喩が使われており、その挿入の仕方は見事と言うほかない。1つ例を挙げよう。
・「昔の仲間」という作品で、戦死した伊東という友人のことが頭を過ぎったときの描写。
《暗い長いトンネルがあって、トンネルを出て見たら、いつの間にか座席のあちらこちらに空席が出来ていて、座席の主は帰って来ない。棚の上に残されたのは、追憶と云うトランクだけである。伊東の座席も空席の儘竟に塞がらない・・・。雨に濡れる青葉を見ながら、そんなことを考えていたように思う。(192頁)》
この短篇は30頁ほどの話だが、この一節を記すために書かれたといってもよいほどの力がここには具わっていると思う。凛烈というしかない文章である。
以前、同じ文芸文庫から出ている『村のエトランジェ』を読んだことがある。これは初期作品集だったが、この『銀色の鈴』は50代前半の中期作品集といえる。小沼は40代のときに、妻、母、父を相次いで亡くしており、そのことが作風の変化をもたらしたようだ。本書にも二篇収められている、いわゆる大寺さんシリーズも含め、この時期に書かれた作品をもっと読んでみたいと思った次第である。