ニュートン力学つまり17・18世紀(古典主義時代)の精神構造は、世界の総体を一挙に俯瞰するような無限遠に置かれた超越的視点(神)を前提としている。
19世紀の転換点に起きたことは、この超越的視点の個人の身体への内面化である。
ここで注意(知覚における選択、従ってそれは排除、散漫をも意味する。非在は<他者>の実在をむしろ強く感覚する)が主題化される。
注意と散漫の連続性・隣接性は資本主義の生産性、消費文化と連動している。
量子力学は、不確定性の帰属する場所を認識論的な水準から存在論的水準へとシフトさせた。
現実そのもの、存在論的不確定性とは「存在していないわけではない」といった二重否定的な仕方でしか言明しようがない現実の態様である。
セザンヌの「松と岩」のように。
EPR効果(こちらの粒子があちらの粒子のことをどうやって瞬時に知ることが出来るのか)の謎は、こちらの知とあちらの知は別のことではなく同じことの二つの表現と考えれば因果関係を考える必要はなく、パラドックスは擬似問題だったことになる。同時代のキュビズムは多視点的な絵画である。
また、量子力学では知る主体と知られる対象の区別はなく対象自体が何かを知っているかのように振る舞う。その結果、観測者の知は出来事に対し遅れることになる(別の解釈もある)。レヴィナスの隔時性のように(脳のご都合主義かもしれない)
粒子としての光子は、波動としての姿を隠蔽する光の「仮の姿」である。他なる可能性(波動としての)を幽霊のように随伴して立ち現われている。波動もまた、粒子としての現われの「不十分さ」において暗示されている。つまり、本質の積極的存在を想定することはできない。仮に、全知を想定すればそれは<他者>についての無知を代償とせざるを得ない。
量子力学が、資本主義の終焉が予感されていた時代の産物であることは示唆的である。
この本は、科学革命以前から説き起こし同時代の知の全体的布置(芸術、哲学、精神分析、民主主義等)の中で量子力学を捉え量子力学が孕んでいるインパクトを示したものである。