アインシュタイン、ハイゼンベルグといった天才たちに比べ、ポール・ディラック(1902〜84)は
その業績の偉大さにも関わらず、人間としての実像がほとんど一般には知られていない物理学者である。本書は彼の82年の生涯を、さまざまな資料にあたり緻密に描き出した一代記だ。
厳格な教育者であった父との確執、物理学者として認められるまでの道のり、
彼の理論が実験によって認められ、若くしてノーベル物理学賞を受賞し、
ユダヤ系ハンガリー人の女性と結婚し、アメリカに移り住む。
家族関係・交友関係、晩年の生活まで、よくぞここまで調べたと思うほど
細密な描写が続くが、620ページの大作にもかかわらず、飽きずに読みとおせる。
彼の非社交性、他人の感情に関する無理解など天才特有の欠点も
数々の知人の証言から明らかにされるが、スターリンとの関係に悩んだ
ソ連のカピッツァを親身に助けるなど、人間的な温かい側面も充分描かれている。
また当初は哲学を軽蔑していた彼が、次第に哲学的な思考に目覚めていく過程も面白い。
原題の”The Strangest Man”とはニールス・ボーアがディラックを指して言った言葉である。その他オッペンハイマー、ラザフォード、パウリといった著名学者たちが綺羅星のようにディラックの周辺に登場する。彼らが繰り広げるドラマは物理に関心ある人たちには実に興味深いだろう。
量子力学などに詳しくない読者でも、ディラックの生涯を
追ううちに、科学史・世界史に親しむことのできる優れた評伝である。