1961年に書かれた、レヴィ=ストロースの主著といわれる著作。この一冊の書物の中には、本人の多くの体験と多くの先人の影響、そしてその全てを総合する著者自身の才能がぎっしりと詰め込まれている。
この仕事でレヴィ=ストロースがなそうとするのは、個々の人間が現実を捉えるやり方、「認識」と、現実を生きていくやり方、「行動」を規定する仕組みについて、西欧で行われている方法と未開といわれる地域で行われている方法には相同性があり、その体系と実践においては実質的な優劣はつけ難いということの証明だ。
具体的には、フレイザーやデュルケム、モース、マリノフスキーなどが行った未開社会の分析について吟味・検討した後に、彼らの打ち立てた「トーテミズムが社会制度の原初形態である」とする理論を多くの実例で否定することから始める。未開社会においては示差的分類体系を自然から借り受けた形式がトーテミズムとして表象していること、社会集団から借り受ける形式がカーストとして表象し、両者は相互に変換されて利用されうること、そうした形で世界を理解し、現実を捉えていく方法は非常に精密に形作られた知の体系であることを何度も説く。
その過程は、先人が取り組んだ問題への意識と業績の上に立った上での、根底からの批判として非常に鮮やかだ。取り上げられる実例がどれも、先人が挙げた実例よりも格段に具体的で、話の中に色彩感がある。それを可能にしたのは本人の文学的な資質もさることながら、やはり二つの決定的な体験、ブラジルでのフィールドワークと、ヤーコブソンとの共同研究なのだと思う。前者の体験はアームチェア・りサーチャーであったフレーザーやデュルケム、モースにはない現場感覚を与え、後者の体験は同じくフィールドワーカーだったマリノフスキーが見落とした現実を捉えることのできる「認識の力」を与えたのではないか。
もうひとつ忘れてはいけないことは、レヴィ=ストロースの探究はよく「構造主義」と言われるが、彼の研究にはまず始めに人間が居て、最後にはその成果は人間に返ってくるということだ。どうしても認識構造であるとか記号の体系であるとかを考えていくと、具体的な人間存在を等閑視してしまうことが多い。しかしこの書物全体が人類学として、人間学として書かれたことは、サルトルのいう弁証法的理性が未開の人々のあり方を等閑視していることに反駁していることからもわかる。
しかしながら、人類学にとどまらず、認識論にも貢献している著作。