当時、早稲田大学の学生だった大藪の処女作だが、その後の大藪文学の基本ラインが完成されており、いかに氏が早熟な才能を秘めていたかがわかる。まあ、プロットは粗削りだし、若書きゆえのぎこちなさと鼻につく美辞麗句はあるものの、鬱屈した青年のマスターベーションだけにとどまっていない。
伊達邦彦を通して、大藪には身体の内側に充満する静かな怒りがみなぎり、人にすがることをあきらめたニヒリズムが伺える。
本書の文体は特に二十代青年特有の、触れれば切れん尖鋭化した精神状態が顕著に見て取れる。男なら誰もが経験するそれではない。支配者に飼われるかわり、長生きを約束された家畜化した人では縁遠いだろう。迫害されてもいい、たとえ太く短い生涯だとしても、狼としての孤高をめざす途上であらわれる症状だ。
その爆発しそうなエネルギーのやり場をどこにぶつけるかが問題だ。
生と死が隣り合わせのレーサーや登山家になる者、芸術にぶつける者、出世しトップをめざす者もいる。なかには捌け口を見つけられず(あるいは実現できず)、『自爆』してしまう者だってめずらしくない。
本書には『快楽』における名文がある。尖鋭化した青年がこれから先、どう生きるかのヒントが隠されているように思えてならない。
「現世の快楽を極め尽くし、もうこの世に生き甲斐が見出せなくなった『時』が来たら、あとはただ冷ややかに人生の杯を唇から離し、心臓に一発撃ちこんで、生まれてきた虚無の中に帰っていくだけだ。
彼にとって、快楽とはなにも酒池肉林のみを意味するものではなかった。キャンバスに絵具を叩きつけるのも肉体的快楽であり得たし、毛布と一握りの塩とタバコと銃だけを持って、狙った獲物を追って骨まで凍る荒野を、何ヶ月も跋渉することだって、彼には無上の快楽となり得た。
快楽とは、生命の充実感でなくしてなんであろうか。」