帯に「悩む魯迅、笑う魯迅。」とあり、気になって手にとった。
本当だ、愛情とは常に新しくして、生み育て、創り出さねばならない。
思わず引用してしまったのは、四篇目に収録されている「愛と死」からの一文だ。捨てた飼い犬が戻ってくる、という挿話は太宰「畜犬談」を思い出させる。また、
僕は雲のごとく軽やかに、天空を漂泊し、上には紺碧の空、下には深山大海に、巨大ビル、戦場、自動車、租界、邸宅、晴れ上がった繁華街、闇の夜……。
という〈雲〉のイメージは太宰「惜別」に登場する小学唱歌、雲の歌を思い出させる。
訳者藤井省三氏は、「愛と死」で三度繰り返される「どこへ行くのか」という自問自答は、ペテロが三度イエスを否定したのち、殉教した「クオヴァディス(主よ何処へ行き給う)伝説」と重なる、と指摘。留学時代に魯迅が読んだシェンキェヴィチ『クオヴァディス』などからの影響の可能性も示している。私が付け加える可能性があるとすれば、国木田独歩「窮死」で繰り返される「さて文公はどこへ行く」という一文のイメージだろうか。あるいは独歩もまた、「クオヴァディス(主よ何処へ行き給う)伝説」を意識していたかもしれないが……。
「私は愛を鉤とし、恭みを拒とするのです。愛を鉤としなければ、互いに親しめず、恭みを拒としなければ、狎れ合いになってしまい、互いに親しめずに狎れ合いになれば、たちまち離散します。(中略)ですから私のこの義の道の鉤と拒は、あなたの舟戦の鉤と拒よりも優れているのです」
七篇目に収録された「非攻」の、この箇所など太宰「『惜別』の意図」中に見られる、「百発の弾丸以上に日支全面和平に効力あらしめんとの意図」により「惜別」を創作せんとする太宰の決意を連想させる。作中、墨子は言う。
人様の役に立ってこそ、すぐれ物であり、善であり、人様の役に立たぬは、拙い物、悪なのです。
うむ、もっともだ、と思う一方で、しかし、公輸般が発明した、「ひとたび放てば、飛ぶこと三日」という「木と竹で作った鵲」も、私には捨てがたい。実際には役に立たなくとも、目で楽しめる、というのは一つの魅力である、と私は思うからだ。
とんちんかんなことばかり書いてしまったが、本書の魅力は、おのおので見つけ出していほしいと思う(投げやりな感じで、すみませんが……)。