この「運命共同体」という曲において、まず懸念されるのは、introを聴いて、「お!これは陽はまたのぼりくりかえす以来の大作だ!」と歓喜し、けれど、曲を聴き進めるにつれて、「あれ?あれ?」と、期待はずれな感じを受けてしまいやしないか、ということです。
そのレベルで聴いてしまうと、この曲の「聴けてない部分」が沢山ある気がします。
この曲を理解するのに必要なのは、ただ一つ、「詩的直観」のような気がします。
どういうことかと言うと、これまでDAの根幹にあったのは、論理性や方程式でした。ざっくり言ってしまえば「ループミュージック」だ、ということです。DAはいつも「変化が激しい」と言われてきましたが、実は、それは嘘で、外見の装飾は変われど、根幹の「方程式」は不動であって、かなり頑固なものだと思います。悪い言い方をすれば、「毎回曲が似てる」とか、「退屈」とか、「曲の構造が安易すぎる」とか、そういう面も確かにありました。方程式に固執している硬直さや、四角四面感を(それがDA印でもあるのですが)、やっぱり、誰もが心のどこかで感じていたように思います。
それが、『velvet touch』ぐらいから、変わってきたように思います。つまり、論理性の殻が壊れ始めた、という気がします。そして、極め付けが、この「運命共同体」でしょう。ツタが陽の方向へ伸びるように、詩的直感に導かれるままに曲が作られている印象を受けるのです。そこには、論理性に縛られた硬直さがなく、のびやかであり、今までになかった、柔軟性があります。
かなり、語弊があるのは承知でざっくり言えば、「頭でっかちから詩的直感へ」という、最大の違いがあるのではないか、と思います。
良い曲、悪い曲、そういう二項対立を一等地越えたところにある、詩精神。
この曲では、すべてが「詩」を称えています。スネアの音一つとっても、それは「詩」なのです。歌詞も、もう歌詞ではありません。「啓示化(フレーズ化)」されています。ここ最近のDAの歌詞は「手癖歌詞だ」「マンネリだ」と非難されることも多かったですが、ここではもう「啓示化」にまで昇華させようとしているので、その押しの強さには唸ってしまいます。本当に「歌詞が歌われている」のではなく、「啓示がふってくる」といった印象なのです。
つまり、
初期から息づいていた「小さな叙情性」が、一つの「遠大な詩」になった、ということが言えると思います。
これは、DAの音楽変遷を語る上で、欠くことはできない点のように思われます。
DAの持ち味であった「小さな叙情性」は、初期から中期までは、箱庭的なループミュージックとして表現されてきたように思います。それがある意味で、安心できる論理性で周囲を囲み、手放しの飛翔を拒んでいる、ようにも思われていました。それを繰り返し、十年たち、その「小さな叙情性」が、一つの「遠大な詩」に実を結んだ。だから、この曲は、「感動的」なのではないでしょうか。
introの「大作感」の後の音像は、だから、正しいのです。「悲しいな」とか「切ないな」だとかそういう感情の「分節化」は不可能になっています。清濁あわせのみ、すべての感情と歴史が溶解して、一つの「詩」になっている。
だから、この曲は、「永遠時代」という言葉がよく似合います。自動演奏感が切ないです。彼ら自体も、楽曲の中に溶解し、一つの「詩」となり、遠いまぶしい記憶の中で演奏しているような、へんな儚さがあります。一個人の悲しさというより、時代から見た悲しさ、というか。この自由主義的な詩世界は、当分やってこないから、そう感じるのかもしれませんが。
まとめると、
音楽愛が、行き着くところまで行き着くと、こんな日向的世界が待っているのか、とか。
初期の「叙情性」が、こんな立派な「詩」になるのか、とか。
そこまで見出せれば、この楽曲は、感動的だし、奇跡的だし、「こんな才能が許されているなんて、うらやましい!」ということにもなるわけです。
なんにせよ、この曲は、一区切りつけた感じがあると思います。
「なんのために音楽をするのか」
この問いに、「最も音楽的に答えている楽曲の一つ」であることは、間違いありませんし、また、
「ミクスチャーとは何か」
この問いに対する、腑に落ちる答案も、しっかり提出されています。
曰く、
「ミクスチャーとは、ジャンルのことではない。一つの詩のことである」