近衛公と木戸侯、昭和帝に仕えた二人の華族にスポットライトを当て、二人が先の大戦の開戦と終戦、終戦直後に何をしてきたのかを独自の視点から掘り下げた、とても興味深い本です。
今日、近衛文麿の評価は「優柔不断でその場限りの判断を繰返し、最後には我国が重大な岐路に立っているときに内閣を放り出して日本を滅亡の淵に追いやった」といったところで概ね固まっているようにも思えます。
著者は以前からこの人の再評価と、開戦前〜内大臣府廃止まで内府として昭和帝を常侍輔弼した木戸幸一の責任の明確化を試みて来ました。
この本の主題もまさにそこにあり、この二人の暗闘に木戸が勝利した時から「木戸・ノーマン史観」なるものが形成され、昭和史研究、そして私達の史観形成にも大きな影を落として来たのだと著者は主張しています。
確かに未だに、内大臣は玉璽を預かる一宮内官に過ぎず、大きな政治的影響力は無かったのだと思っている人は多くいますし、私が個人的に尊敬する研究者の中にもハーバート・ノーマンの両者への評価さながらに、木戸候に寛大で近衛公に冷淡な方もいます。
しかし、ひとたび鳥居ワールドに嵌まると、そんな短絡的な歴史認識、人物評定は恥ずかしいことだと感じます。
それは、記録を残した者、残さなかった者も含め、その時代の主役達が人並み外れて優秀な日本を背負って立つ人材だったのであり、一方、一人の生身の人間であったのだという、当たり前の事実を自分自身が想像出来なかった拙さへの反省なのかも知れません。
著者は膨大な記録をクロスチェックし、その矛盾や釈然としない関連性に注目することで、世評で言われる「大胆な推理」なるものを昭和史関連の一連の著作の中で展開し、世に問うて来ました。
この本は、その中でも特に'92年発行の「日米開戦の謎」における数章の推理を十五年の歳月をかけて補強、補完したものと言って良く、イデオロギーで曇った目で歴史を見る者にとっては大変な悪書でしょうが、純粋に歴史の事実に興味を持ち、そこから学ぼうとする者にとって、内容、著者の姿勢ともに大きなヒントになると感じます。