現代の美学には、大きく2つの流れがある。プラトン美学系と芸術社会学系。後者は、事実上、ヘーゲルが分岐点と言ってもいい。やつは美の話を、受容する社会の側に反らしてしまった。クローチェを経て、ガダマーや受容理論、カルチュラルスタディースへ繋がる。だが、これは、支流だ。
ディルタイは、ヘーゲル派美学を嫌い、丹念に哲学の中に潜んできたプラトン美学の流れを追い、近代の経験主義や合理主義の中に、その伏流を見つける。美の感動は、感覚の快ではなく、感性(当初は「趣味」と呼ばれた)の領域の喜びだ。それは、たんに世界と審美者の調和であるばかりでなく、真であり善であるものが感性そのものを高めてくれる喜び。そして、この発想は、ショーペンハウアーやニーチェとともにガダマーへ、美と実存の関係へと流れ込む。(興味深いことだが、美の本質に関しては、ハイデッガーとガダマーでは、大きな断絶がある。)
とにかく、ディルタイの目配りは驚異的だ。多くの近代哲学者の感性問題を概括するとともに、芸術家もまた実践的な美学の探求者として、この鳥瞰の中に取り込んでしまう。ヘーゲルのような浮ついた牽強付会を排し、思想学的な見地から感性の領域を確立する。
まさに現代美学の礎となる書だが、さて、この文庫、いまのどれだけの人が読めるのか。訳者の澤柳大五郎は、成城学園を創った明治の偉大な教育者、澤柳政太'カの息子で、美術史家の大物、後に東京教育大、早大の教授。だが、この翻訳当時(1943)は、弱冠33歳。父親の薫陶か、わかりやすい美文で仕上げられている。とはいえ、戦前の漢学の素養があって当然の時代。歴史仮名遣いだし、副詞がことごとく漢字のままで、ひらいていない。「頗る」「夫々」とか、読める? そのうえ、哲学用語も、いまのものとかなり違う。経験主義が「実験主義」、合理主義が「唯理主義」、哲学史の方で理解があれば、訳語の当て方もすぐに推察できるのだが、美学しかやっていない人には、まったくとりつく島もあるまい。いっそドイツ語の原文の方が楽かも。だけど、この美文、かっこいい。