「目の覚めるのような」という表現はこうした作品にこそ捧げられるべきかと思う。
まず驚かされるのは、四章構成の各章のサブタイトル−「世の中を変えようとする、だがうまくゆかない」「どうせうまく変えられないならば、自分で変えようと思わないようにする」「変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる」「すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る」−に濃縮された明快なパースペクティブだ。
「未来」に賭ける「左翼」。「現在」を肯定する「保守」。「過去」へと反り返る「反動」。政治思想をさしあたりそのように大別できるにせよ、実際に生起する思想はしばしば接合と分離を繰り返し、複雑怪奇な様相を呈して止まない。とりわけ右翼思想は、微温的な道徳訓から破壊的なテロリズムまで、農本主義から軍国主義まで、教養主義から反理性主義まで、およそ正反対の要素が「右」の名の下にいとも簡単に同居する。
そうした右翼思想のアクチュアリティに分け入るべく、狭義の政治思想のみならず文学・芸術作品までを視野に収め、縦横無尽な論述が展開される。その博識と慧眼は尋常ではない。ときに難解きわまりない哲学談義を一刀両断に命題化し、ときに罵詈雑言から一貫するロジックを抽出し、ときに、長谷川如是閑、西田幾多郎、阿部次郎など、いわゆる「右翼」とは考えられない論者からも思想的連関を発見する。
その結果見出されるのは、「ものの考え方に全体の構造としてうまくゆかないところがあり、その中で堂々巡りをしているうちに、奇妙な想念にどんどん流されてしまう」という右翼思想の姿、そしてそれが一部の論者や作品に顕著に見出されるばかりでなく、近代日本の思想風景全般に関わり、そしてその構造は今なお残響しているという認識である。
「美しい国」を掲げる政権の崩壊を目の当たりにした現在、本書の射程は皮肉なまでにアクチュアルだ。