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物語の主人公は、江戸後期から明治までの19世紀日本文学を研究する杉安佐子。安佐子は元禄文学学会で、芭蕉の出立の理由を御霊信仰と結びつける新解釈を専門外の立場から示し、学会の重鎮の反発を買う。さらには『源氏物語』には、光源氏が藤壺と最初に関係する情景をつづった幻の1巻「輝く日の宮」が存在したが、紫式部の雇用主であり批評家でもあった藤原道長の命によって削除されたとの説をシンポジウムの場で唱え、ライバル心を燃やす女性源氏研究者との間に軋轢(あつれき)が生じる。想像の翼を自由に羽ばたかせ独自の論を展開し、閉鎖的な学会の制度と果敢に闘う安佐子の研究生活と彼女の私生活に密着した物語が主要な部分を占める。
全体は7つの章から成っている。安佐子の将来に微妙な影響を及ぼす、彼女が中学時代に書いた泉鏡花ふうの短編小説がまず提示される。その後の章では通常の三人称小説の形式に加え、作者らしき語り手が登場したり、年代記ふう、戯曲形式などバリエーションに富んだ語りの形式によって物語が語られていく。章ごとに異なる語りの趣向は、小説という表現形式(内容)そのものに対する根源的な「批評」になっている。
物語の終盤、自然教育園の森にたたずむ安佐子の脳裏に、「輝く日の宮」をめぐって対話する紫式部と藤原道長の姿が浮かんでくる。千年の時を往還して安佐子と紫式部というふたりの登場人物は一体化し、「輝く日の宮」そのものが復元的に提示される最終章へとつながっていく。
作中で安佐子が『源氏物語』の特徴として指摘する、作中人物間や出来事の決着がつかないまま物語が閉じられるオープン・エンディングの手法が、この作品にも採用されている。物語の結末は、読者の自由な解釈と想像に委ねられている。本書は、国語教育や学会の現状に疑義を呈した批判の書であり、推論と考証に裏づけられた画期的な源氏論であり、歴史と虚構を融合させた知的エンターテイメント作品であり、小説という形式によってしか表現できないフィクションの領域を可視化した、つまりは小説の小説性そのものを作品化した究極の「小説」である。(榎本正樹)
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29 人中、24人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 3.0
極みに達した議論小説,
By Yeemar (東京都) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 輝く日の宮 (文芸第一ピース) (単行本)
ほぼ10年ごとに発表される丸谷才一氏の小説。今回も、読者は10年間辛抱強く待ってきた。私も愛読者の1人として、渇いた者が一気に水を飲むように本書を読み終えた。だから「面白かった」というのが率直な読後感だ。しかし一方、「これは小説なのか、一体何なのだ、得体のしれない作品が生まれてしまった」という感想も持つ。本作品は全編、文学の議論で埋め尽くされている。「芭蕉はなぜ東北へ行ったのか」「『源氏物語』に『輝く日の宮』という巻はあったか。あったとすればなぜ失われたのか」などについて、登場人物たち――というよりは作者丸谷才一自身――が、想像力を縦横に駆使して独創的な論を展開する。それは、登場人物の源氏学者たちが色をなして反対するていの説であって、いわゆる「実!証的な学問」ではない。それは作者も先刻承知だ。「大胆に仮説を立てる所が独特の魅力」(p.265)の小説である。 このような丸谷氏の手法は、一作ごとに顕著になってきたもので、本作品『輝く日の宮』で極みに達したともいえる。『裏声で歌へ君が代』のころは、物語50パーセント、議論50パーセントといった感じだった。ところが、本作品では物語10パーセント、議論90パーセントぐらいになっているのではないか。小説にストーリーを求める読者にとっては、苦痛な作品であるかもしれない。逆に、純粋に実証的な論文を求める読者にとっては、荒唐無稽の作品であるかもしれない。そうすると、一体この作品が多くの読者を得られるのかどうか心配になる。議論の真偽に拘泥せず、作者の自由な空想力を余裕を持って楽しむ!ことができる者のみが本作品を堪能できるだろう。 惜しむらくは、登場人物たちが狂言回し・解説者としての役割に力をそそぐあまり、作中で自分たちの人生を十分に生きていないように思われる。登場人物にリアリティが薄いのは本作品の瑕瑾ではないか。
9 人中、8人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
スリリングな体験,
By yukkie (東京都) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 輝く日の宮 (文芸第一ピース) (単行本)
すごい。今年衝撃を受けた本の一つとなりました。源氏物語の素養がない私は題名から何のインスピレーションもわかず、同僚のI女史が「いいわよ」とすすめてくれたときも実感もわかず読み始め、しかも若い女性日本文学者のとりとめもない物語なので飽きてきてしばらく放置してありましたが、今日すべてを読みきって感服しました。物語は途中からもう一人の宿敵の女流日本文学者との対決となり、「源氏物語」の中の書かれなかった、あるいは書いたけれど失われた、存在のみ推測される「輝く日の宮」章の存在論の丁々発止のシーンとなります。これがすごい。源氏を知らない私でも思わず引き込まれるすさまじい論争で、主人公はついにその「輝く日の宮」を想像上で文学として書かされるはめになる・・。 途中から推理小説を読むようなスリリングな展開となり、丸谷の実験的な文体(一部を戯曲に仕立てたり)もあいまって、非常に読み応えのある文学となっっています。紫式部の私生活の考察も面白い。丸谷のおそらくライフワークであろう源氏研究の結論がここに集約されているのでしょう。 興奮した私はさっそく「瀬戸内源氏」を入手しました。これから私は源氏を読むぞ!
21 人中、17人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
紫式部も納得の痛快な恋愛小説,
By
レビュー対象商品: 輝く日の宮 (文芸第一ピース) (単行本)
再読したい様々な仕掛けに満ちた傑作である。魅力的な女性国文学者(専門が近世文学でも明治文学でもなく「19世紀文学」という設定もいい)が、同性で『源氏物語』が専門の同業者の挑発に乗って、紫式部が書いたとされる『源氏』の、今に伝わらない一巻「輝く日の宮」を小説として復元する、というのが表向きの主題だ。だが、そこは名エッセイストにしてラディカルな物語作者である丸谷才一氏のこと、『源氏物語』からの拙劣な本歌取りなどしないし、野暮ったい古典解釈もない。それどころか、『おくのほそ道』や『宮本武蔵』も絶妙に登場する縦横無尽に面白い読み物になっている。ちなみに前者は、芭蕉がなぜ東北を目指したかという女主人公の解釈として興味津々に語られ、後者は、恋人である大企業社員が米国大富豪と遭遇して大きな取引を結ぶ逸話として痛快無類に描かれる。前者は(そして小説全体が)国文学者の視野狭窄的な研究態度への非難であり、後者は日本の一流(とされる)会社の企業人がいかに無教養で、それゆえあたら海外で貴重なビジネスチャンスを逃していることへの批判とも読みとれる。 だが、やはり小説最大の魅力は、王朝文芸の神髄である、濃厚で官能的ながら卑猥ではない(雰囲気の中途半端な模写では決してない)恋愛描写の移植と、紫式部が獲得した「引き算」による物語構成の試行である。「引き算」とは、『源氏物語』54帖における「雲隠」のような元々巻名しかない暗示的設定(光源氏の死)のこと。題のみあって本文がない、欠損ではなく描かずに暗示するだけで、小説をより充実させるという究極の工夫。この「引き算」の延長上に、存在しない『源氏物語』の55番目の巻(現実に一部の研究者はその存在を認めているという)の復元という意欲的主題が誕生した。こうした主題を核に据え、かつそれを趣向倒れにしなかった作者の構成力と表現力に、拍手を送りたい。
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