日本語らしい表現や英文の正確な捉え方を述べようとした本です。翻訳には日本語力が重要である。全く同感です。ですが、著者の日本語もやや不自然に感じられるし、ところどころ英文の意味を誤読していると感じる部分がありました。
私は翻訳書を殆ど読みません。なぜかというと、翻訳調の日本語に耐えられないのと、誤訳が多いからです。理系の本なら数式が主体だし構文も単純なのであまり誤訳に出会いませんが、ビジネス書などは悲しくなるほど誤訳の多い本があります。その誤訳された意味がネットなどで拡散増殖しています。なぜ、こんなに誤訳が多いのか。そう思ってこの本を読みました。
翻訳者の報酬が低いこと、そのため有能な人材が集まらない、身を入れて仕事をしない、そういうことが誤訳が溢れている原因ではないかと考えています。ちゃんと翻訳された本なら原著より高くて当然だと思います。理系の本は、ペーパーバックなら原書のほうが安価です。時間を掛けて読む理系の本ならそれでも売れると思いますが、一日で読めるような本でそれをやると売れないのかもしれません。しわ寄せが翻訳者の低報酬を生む。悪循環だと思います。
第4章に Da Vinci Code の翻訳例が生徒訳と著者訳を比較して載せてあります。ここを検討します。
p178 As Langdon loaded his slide projector, ...
著者 スライド映写機の準備を進めながら、・・・
対案 映写機にスライドをつめながら、・・・
註釈 動詞 load の基本的な意味は「載せる」、「積み込む」です。積む対象を示す with 以下が省略されていますが、映写機のマガジンにスライドを入れています。「準備」とすると漠然とし過ぎて、今 Langdon が何をしているか読者の心に光景が浮かびません。小説の翻訳では特にそこが重要です。本来翻訳とは、原文を読み想像する光景を日本語でどう言い表すかだと思います。無い単語を補っても良いし、不要な単語は省略しても良いと思います。
p178 a progression famous not only because the sum of adjacent terms equaled the next term, but because the quotient of the adjacent terms possessed the astonishing properties of approaching the number 1.618 -- PHI!
著者 その数列は、隣り合うふたつの項の和がつぎの項の値に等しいことで名高いが、隣り合うふたつの項の比がある数へ近づいていくという驚くべき特性も持っている。その数こそ黄金比すなわち約1.618だ。
対案 隣り合う項の和が次の項に等しいことで知られている数字の列だが、それだけじゃない。隣り合う項の比には思いがけない性質があって1.618に近付く。ファイ(Φ)だ。
註釈 形容詞の famous ですが、「名高い」よりも「皆が知っている」でしょう。また、 progression は数学用語とは言えないので「数字の列」としました。なお、著者はPHIがΦであることに気付いていないようです。そのため、わざわざ黄金比と訳したり、 1.618と訳したり、翻訳が読みにくくなっています。
p180 Despite PHI's seemingly mystical mathematical origins, ...
著者 その数学的な意味合いはたしかに謎めいているものの、
対案 ファイ(Φ)の数学的な起源は謎のようだが、
註釈 英文を読みなれていればoriginsが起源であるところを間違うはずがありません。直訳は「Φの見たところ神秘的な数学的起源にもかかわらず」です。事実、いつの時代に、どこの地方で、誰が黄金比Φを発見したかはっきりしません。
p184 ... all possessed dimensional properties that adhered with eerie exactitude to the ratio of PHI to 1.
著者 さまざまなものの比率が不気味なほどの正確さで1.1618対1の比率に迫っている。
対案 各部の寸法が気味が悪いほど正確に1対Φの比を守っている。
註釈 動詞 adhere は「支持する」、「くっつく」、「遵守する」です。「迫る」の意味はないと思います。A to B は B に対して A という意味なので順番を変えました。Φ対1では語呂が悪いでしょう。
p190 Langdon whispered, leaning toward her now,
生徒 ラングドンはソフィーへ体を寄せ小声で言った。
著者 ラングドンは体を乗り出して小声で言った。
対案 ラングドンは囁いた。彼女の方へ身を乗り出している。
註釈 著者の訳で良いと思いますが、理由が変です。知りあって1時間だから体を寄せるなんてことはしないと書いていますが、そんな考察は不要です。動詞 lean の意味は「傾く」です。椅子に座っていれば上体だけを伸ばすのです。小さな声で聞こえるということは、上半身が彼女に近づいているからです。さっきまで離れていたのが身を乗り出したので now があります。
p191 They claim the Grail legend -- that of a chalice -- is actually an ingeniously conceived allegory. That is, that the Grail story used the chalice as a metaphor for something else, something far more powerful." He paused.
著者 その主張によると、聖杯伝説は、 -- 杯の伝説は -- 巧みに作られた寓話だという。つまり、杯ははるかに重要な別のものの比喩として使われるというわけだ。」 そこでひと息つく。
対案 彼らの説だと、聖杯伝説 -- カリスの伝説 -- は実は巧みな寓話なんだ。つまり、あの話はカリスを何かの例えに使っているんだ。何かずっと凄いもの。」と言って間を置いた。
註釈 著者の訳に間違いはないと思いますが、日本語として不自然に感じます。話し言葉で純粋な意味の受け身、この場合なら「作られた」はあまり使いません。使うとしたら迷惑の語感が伴う場合、たとえば「新製品と同じものを他社に安く作られた」などです。また、「カリス」は原文で斜体、つまり外来語なわけですから、そのままカタカナで書くべきです。
p193 "Something that fits with everything your grandfather has been trying to tell us tonight, including all his symbolic references to the sacred feminine."
著者 「ミスター・ソニエールが今夜伝えようとした内容は、聖なる女性の象徴も含めてすべてに完璧にあてはまるものだ。」
対案 「その何かに今夜あなたのお祖父さんが私たちに伝えようとしていたことのすべてが符合する。母性信仰の象徴もすべて含めて。」
註釈 冒頭の something は例えの対象です。直訳は「お祖父さんが伝えようとしていたすべてと符合する何か」をカリスが例えているのです。著者の翻訳は何にどうあてはまるのか分かりません。また、sacred feminine は聖なる女性ではなく、「神聖な女性性」あるいは「女であることの神聖さ」です。日本語として変なので「母性信仰」としました。細かいことですが、現在完了進行形を著者は忘れています。
p198 Bishop Manuel Aringarosa's body had endured many kinds of pain,...
著者 マヌエル・アリンガローザ司教の体はこれまで幾多の痛みに耐えてきたが、・・・
対案 司教の体が経験してきた痛みはさまざまだが、・・・
註釈 重要なのは数ではなく種類です。
P200 He opened his eyes, trying to see, but the rain on his face blurred his vision.
著者 目を開けて周りを見ようとしたが、顔を打つ雨が視界を曇らせた。
対案 目を開け、見ようとしても、雨が顔を覆い視界がはっきりしない。
註釈 打つなら onto です。この場合は on なので雨が顔の表面にあるのです。「顔を覆い」が大げさなら「顔を流れ」でしょう。
p202 He could feel powerful arms holding him, carrying his limp body like a rag doll, his black cassock flapping.
著者 布の人形のようにぐったりとした自分の体が力強い腕に掴まれて運ばれ、黒い法衣がはためいているのが感じられた。
対案 強い両腕で抱えられ運ばれて行くのが分かった。ぐったりした体が縫いぐるみのようだ。黒いカソックが揺れている。
註釈 動詞を長い文の最後に持ってくると読んで疲れます。この部分だけでは、法衣の裾は風ではためいているのか、運んでいる人の歩みで揺れているのか分かりません。どちらでも良いように、「揺れる」としました。なお、なるべく語順の通りに訳すと原文を読むのと同じ順番で単語の伝える概念が読者に伝わります。
p204 Lifting a weary arm, he mopped his eyes and saw the man holding him was Silas.
著者 疲れ切った腕を上げて目をぬぐうと、自分を抱きかかえている男はシラスだと分かった。
対案 重たい腕を引き寄せて目を拭うと、抱えてくれているのはシラスだった。
註釈 労働で疲れたわけではないと思います。「疲れた」より「重たい」が日本語らしいと思いました。低い位置から目まで持ってくるので上げるといえば上げるのですが、日本語の上げるは垂直方向の移動が水平方向より大きい場合です。
p208 Rosslyn Chapel -- often called the Cathedral of Codes -- stands seven miles south of Edinburgh, Scotland, on the site of ancient Mithraic temple.
著者 しばしば暗号の大聖堂と呼ばれるロスリン礼拝堂は、スコットランドのエジンバラより七マイル南の、かつてミトラ教の神殿があったところに建っている。
対案 ロスリンチャペルは暗号のカテドラルとも呼ばれ、建っているのはエディンバラから南に七マイル、大昔のミトラ教の神殿の跡地である。
註釈 修飾語が長々と続くと文章が読みにくくなります。修飾語を短くする、修飾される語を前に持ってくる、文を短く分割する、などの工夫をすべきです。長い修飾語の「しばしば暗号の大聖堂と呼ばれる」を対案では後ろに持ってきて「暗号のカテドラルとも呼ばれ」とし、主動詞の「建っている」は前に持ってきて「建っているのは」としました。原文の単語の順番に合わせれば読みやすくなります。Cathedral は「司教座聖堂」であって「大聖堂」とは限りません。スコットランドは省略しても良いと思います。他の Edinburgh と区別するためですから。
p211 This longitudinal Rose Line is the traditional marker of King Arthur's Isle of Avalon and is considered the central pillar of Britain's sacred geometry.
著者 この子午線--ローズ・ライン--はアーサー王のアヴァロン島の所在を示す目印であると伝えられ、イギリスの神聖な地形の中心をなす柱とも言われている。
対案 このローズラインという子午線はアーサー王のアヴァロン島の指標であり、イギリスでは神聖な配置の基準線と見なされる。
註釈 この子午線上に神聖な場所が配置されているのではないでしょうか。子午線がそのまま柱とは考えにくい。さらに、「神聖な地形」では意味が分かりません。対案の「基準線」は意訳し過ぎかもしれませんが。
以上、著者が「生徒と私の訳を比べてみてください」と言うほどには、日本語があまり自然でないことに気付かれると思います。私訳は修飾関係などの文法よりも語順を優先しました。科学や哲学などは論理が重要ですが、文学作品の場合心に浮かんでくる概念の順番が重要だからです。
私は英語の専門家ではありません。理系の研究者です。教科書や論文を読み、論文を書き、講演し、海外の研究者や技術者と会話や手紙のやり取りをする。実践で身に付けた英語です。文法を正確に知らない部分もあるでしょう。その程度の人間が読んでも、この本の翻訳は疑問が多くあります。本当に英語が出来る人は翻訳者にならないのかもしれません。彼らに魅力的な仕事にしない限り、今後も悪訳が増産されることでしょう。
[追記]
最近気付くことがありました。A...deのドイツ語のCDのレビューを時々読むのですが、正直ぼんやりとしか分かりません。科学のドイツ語なら、単語が日本語とほぼ一対一に対応しているので意味が取りやすいのですが、音楽や文学は論理より感覚なので、なかなか原文が実感しにくいのです。
翻訳文を読んでぼんやりと状況が分かれば良いというのなら、たしかに著者のも私のも大同小異かもしれません。ですが、小説の描写がくっくりと絵とし浮かぶかとなると、大きな違いが出てくると思います。原著者が読者に伝えたかったと同じ絵を読者に思い描かせられるかが大切です。この本の和訳はその絵が微妙に違っていること、単語の順番が原文と違うので読者の頭に光景が入ってくる順番が違うのです。
なお、カリスはカトリック教会の用語です。杯というと日本酒を飲むお猪口を連想しますが、現物は寿司屋の湯飲みよりもまだ大きいのです。その絵を読者に伝えるのに杯という訳語は妨げになると感じました。
翻訳業の人たちは著者の日本語に違和感がないようですが、それは彼らが学生時代から英語が好きで、「私はいくつかの野菜たちを食べました」(清水義範さんの『永遠のジャック&ベティ』にそんなパロディがあります)みたいな人工的な日本語に慣れているからだと思います。