仮想対談のかたちをとりながら、現代の仏教と僧侶がかかえている問題を鋭くえぐりだし、多くの本質をついた言葉を発していく堂々とした作品。オウム問題は日本の仏教界の陰画であり現在なお問われるべき課題であると論じ、日本における出家の困難さの構造をリアルに分析し、十二支縁起の根本である「無明」とは言語作用に拘束されることであるという説を唱えたりする。スリリングかつ学ぶところ多大である。
ぶっちゃけ気味の発言もかなり痛快。
「別に誹謗しているわけではないが、巷間、宗教家が好きなことばは「こころ」と「いのち」。最近では「環境」。ならば、私は宗教家に訊きたい。あたなはそのことばを、あなたのどこに結びつけて言っているのか。」
「個人的に言うと、テーラワーダの人の話はつまらない。言語空間が閉じてしまっている。最初から行うことと言うことが決まっている。そこが「明快」なんだろうがね。私にはつまらない。」
あちこちから批判の矢が飛んできそうである。だが、本気度が段違いの著者には、そんな批判は痛くもかゆくもないだろう。問題は、自分が俗世のしがらみや矛盾を生き抜き、苦しみながら苦しみから少しでも自由であるための方法について思索していくことである。
そのためには、来世や霊魂がどうこうといったスピリチュアルな与太話など無意味である。
「来世があると言われても、ないと言われても、考えることは終わらない。死の不安や老いの不安はどうしても消えない。そういう人間のありようを確かに受けとめることのほうが、まちがいなく霊魂の話よりも大事なことなんだ。」
なお、「あとがき」に示唆されるように、本書は、宮崎哲弥氏との共著で出す予定だったが、氏の多忙のため原稿を再構成してできあがったようである。本書の仮想対談にみられる問いと答えの応酬は、非常に見事な感があるが、そういう成立の背景を知ると、なるほど、と納得の思いにさせられる。