著者はアナキストで、本書もアナキズム系の本の関連書として表示されているのだが簡単な書籍紹介の欄にも「いまここにあるコミュニズム」などとあるように、著者は多分にコミュニスト的でもある。実際著者はコミュニズムとアナキズムの中間にある人で、アナキストからはお前はコミュニストではないかと言われ、コミュニストからはアナキストと言われるそうだ。だから彼の言う資本主義後の世界に来る世界はやはり共産主義的な世界であるようだ。また彼はネグリを実践・運動とアカデミックな場所を繋げた翻訳者的存在として高く評価している一方でマルチチュードの概念を批判してもいて警戒してもいるようだ。
それで著者の言うコミュニズムとはなんなのか。それは全てが共同所有される社会、全てを国有化するような社会、国家が経済を統制する社会、またソ連的な社会…ではないようである。「どれほどの大企業であれ、その内実はコミュニズム的でしかありえず、危機のときには必ずそれをあてにする」と書籍紹介には引用されている。これが意味するところは52頁や88頁、181頁で示されていると思う。一言で言えば著者の言う共産主義とは「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」というマルクス的原理に終始する。
もう少し具体的には彼は次のように言っている。
人は親友や家族に対しては市場的な交換を迫ったりはしない。例えば友達が問題を抱えていれば貴方は彼を助けるのにいくらかかるかといった利害を気にする事なく助けるだろう。友達もまた危機的状況にある貴方に対して同じように対応するはずだ。それが「各人は能力に応じて働き必要に応じて受け取る」という事である。自然災害のごとき大きな危機状態では誰もがこのような振る舞いをする。しかし親友や家族に対してはこのような振る舞いは日常的であって危機は必要ではない。何故なら貴方はその関係に終わりが来るとは想定しておらず、互いに永続する決算のない関係性の中にあるから。モースによれば共産主義は必ずしも集団的な現象ではない。それは友人同士といった二人程度の人数でも成立しうる。これこそが最もありふれたどこにでもある「個人主義的共産主義」である。人々は財産への拘りがあまりに強くそういう共産主義が見えない。だがこれは意識するしないに関らず何事かを協力して実現する時には常にとっている姿勢である。こういった事は大企業でも同じだ。かくして共産主義はここに既にある。人々はただそれに無自覚なだけだ。問題は既にある共産主義をさらに民主化するにはどうするかという事である。資本主義は共産主義に対するものではない。資本主義はただ無自覚に惨めに不器用に、現存する共産主義を管理する一つの方法でしかない。云々。