本書は,以下のような「過激な」書き出しで始まります。
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「本書は,議論に巧みな人たちが意識的にあるいは無意識的に用いている方法を,公然と『盗用』しようとする試みである。」(10頁)
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確かに,他人のアイデアや方法を「盗用」することは,特許侵害の場合を除いて,著作権法にも触れない適法な行為です。しかし,「公然と」盗用するのであれば,その成果も,「公開」するのが「礼儀」というものでしょう。
著者も,以下のように,そのような成果が出版されて公共に返されることになれば,社会的に大きな貢献がなされるという適切な例を挙げています。
「反対尋問の名手として知られたニューヨークの弁護士フランシス・ウェルマンは,…〔反対尋問の〕『才能を与えられている』人たちの方法を研究し,それを自分のものとすることは可能であると述べている。彼の,名著の誉れの高い
『反対尋問の技術』(1903)〔林勝郎訳(1975)〕は,そのような研究からできあがった本だ」(11頁)。
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ところが,驚くべきことに,著者は,「公然と」盗用した他人の議論技術(トピカ)から作られた,自分専用の「トピカは公開してはならない」と宣言するに至ります(第1章「5 自分専用のトピカを作る」)。
他人のトピカを「公然と」盗用したのですから,自分が作ったトピカを,今度は,他人の利用に役立てるように「公開する」というのなら,話は分かります。しかし,他人のトピカを自分のものにしておいて,それを秘密にするというのでは,せっかくの技術の「盗用の連鎖」がそこで断ち切られてしまいます。
著者は,なぜそのような理不尽な主張をするのでしょうか。著者は,その理由を,以下のように「誠実に」述べています。
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「トピカは公開してはならない。これは,自らの手の内を明かしてはならないという意味だけでなく,他人もが利用できるトピカであってはならないということだ」(83頁)。
「これは天に唾するような話になるが,本書のような,議論の技術についての本を書くことは,著者である私が,今後非常に議論がしづらくなることを意味する。議論の技術を公開するとは,可能性としての論敵に手の内を明かすことに他ならないからだ。」(79頁)
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議論術をすばやく身につけようと思うのであれば(19頁),他人(例えば,アリストテレス,キケロ,呉智英,福田恆存など)の思考術としてのトピカ(トポイ・カタログの上手な使い方)のうち,自分の役に立つものは,「公然と盗んで」自分専用のトピカを作りなさい(29−87頁,170−192頁)。しかし,その結果としてできた自分のトピカは,たとえ,他人に役立つものであっても,秘密にしておきなさい。なぜなら,自分の手の内を見せることは,議論をする上で,不利になるから(79,83頁)。
これが,本書における著者の主張の要約です。しかし,「公然と」盗用しておきながら,その結果は「非公開」とするというのでは,何とも腑に落ちません。
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著者がこのような理不尽な主張をするに至った,根本的な原因は,どこにあるのでしょうか。
その原因は,どうやら,著者が,「議論とは,勝つためにするもの」,少なくとも,「議論するからには,勝たなければならない」と考えているからだと思われます。
そのことは,著者が,「議論に勝つ」とは,相手が反論できずに黙り込む状態に追い込むことであり,自分がそうならないように,「たとえ脆弱であっても何かしらの反論をする」ことが必要である(91頁)。そして,相手に対して言い返す「決まり文句」(95−98頁),「常套句」(99−122頁)を用意しておくべきだというように,議論の要素(データ(根拠),理由づけ(論拠),反論)とは関係のない「枝葉末節」に,第2章(90−122頁)すべてを費やしていることからも推測できます。
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しかし,議論は,勝つためにするものでしょうか。議論は,むしろ,過ちを免れない存在としての人間が,それを避けるために互いに集い,さまざまな観点を持ち寄り,なるべく誤りをなくすように問題点をあぶり出し,また,当事者すべてが満足できるような合意を形成するための優れた方法であると考えるべきではないでしょうか。
もしも,そのように考えることができるならば,「議論で負ける」ことは,自分の誤りが正され,「思わぬ間違いを免れる」ことになるのですから,喜ぶべきことでしょう。また,「議論で勝つ」ことは,一応,誤りがなかったことが確認されるので,これまた,喜ぶべきことでしょう。
確かに,議論の勝ち負けは,議論の真剣さを確保するためのインセンティブになっていると思います。しかし,議論の勝ち負けは,議論の本来の目的ではないし,議論の勝ち負けにこだわって,自分のトピカを秘密にする必要性はないように思われます。
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本書の2年後に出版されることになる
香西秀信『「論理戦」に勝つ技術―ビジネス「護心術」のすすめ』PHP研究所(2002)の「あとがき」において,著者は,トピカを「秘密にする」のではなく,むしろ「秘密を暴く」ことの重要性を語ることになります。本書との際だった対照を示すものなので,少し長くなりますが,原文のまま引用します。
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「レトリックを研究するとは,それが機能する楽屋裏を暴露することに他ならず,研究し公開すればするほど,それが現実の議論の中で使用されることを難しくします。レトリックの研究は、こうした奇妙な性質をもっています。
私はある時期からこのことに気づき,いっそこれを極限まで推し進めてみたらという,妄想を抱くようになりました。この世の,すべての手品の種明かしをしたら,何人も手品など使えなくなる。少なくとも,誰もその手品を不思議とも思わず,感心もしない。
同様に,この世のありとあらゆる説得的言論を解剖し,それが論法,議論術として機能する秘密を暴いてみせたら,誰もが議論をするのにはなはだ難儀するようになります。どんな手を用いても,相手にはすでにその手の内が知られているのですから。こうして,ついに誰も議論などできない世の中になったら、どんなに清々とすることでしょう。」
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まさに,著者の言う通りだと思います。さらに一歩を進めて,議論の技術は,すべての「手の内」が公開され,すべての人が共有すべき「公共財」だと考えるべきではないでしょうか。そう考えると,「議論の技術」は,一方で,著者の主張通りに「公然の盗用」が認められることになり,他方で,著者の主張とは異なり,その成果は「公開が望ましい」ということになります。
「神ならぬ人間」が陥りやすい誤りは,議論の技術を通じて修正されていくべきでしょう。そうすれば,議論がないよりも,議論のある方が,相対的に誤りが少なくなる上に,当事者すべてが満足できる社会的な合意が形成されることになり,議論に関する将来的な明るい希望が見えてくるように思われます。
スポーツで負けた選手は,以前は,勝敗にこだわるあまり悲壮観を漂わせていました。しかし,今では「力不足でした,悔しいです。でも,楽しめました」といえるようになっています。議論においても,私たちが目指すべきは,議論で負けた人が,「恥をかいた」として落ち込むのではなく,「絶句させられて悔しいです。でも,主張の根拠と論拠について,改善点が見つかって楽しめました」といえるようにしなければなりません。そのために,一方で,社会が議論のルールを整備していくとともに,他方で,各人が議論の技術を磨いていくという努力が求められていると思います。
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本書は,香西氏の理論の発展を示す一里塚です。本書の段階では,氏は,議論の勝ち負けにこだわっており,最近の達観のレベルには到達していません。
この後,香西氏の理論は,秘密主義に基づく「勝つための議論術」から,積極的に議論術の種明かしをすることを通じて,人々の心を守る「護心術」としての弁論術(
香西秀信『「論理戦」に勝つ技術―ビジネス「護心術」のすすめ』PHP研究所(2002)(この文庫版として,
香西秀信『レトリックと詭弁−禁断の議論術講座−』ちくま新書(2010)))へと徐々にレベル・アップを遂げていきます(私は,香西氏の入手可能な著書のすべてを購入し,香西氏の理論の進化の過程を追跡しているところです)。
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以上述べたように,「トピカは公開してはならない」(83頁)という著者の主張には異論があります。他人には非公開を勧めておきながら,最後の第4章の最後の節で,「私のトピカ」(180頁)として,自分のトピカを一部公開しているのですから,著者の主張は,説得力に欠けると評価せざるをえません。
しかし,著者が行っている地道な作業,すなわち,トピカの収集・分析・組み替えという一連の作業は,私たちが,まさに,見習うべき作業です。なぜなら,著者の行っている作業こそが,そして,それを通じてのみ,議論術をマスターすることのできる議論術の「王道」であることに変わりはないからです(論より作業)。