先日、時効を迎えた警察庁長官狙撃事件について、警視庁はオウムの組織的関与を発表した。
明確な証拠もなく時効を迎えた事件について、特定の団体を容疑者として名指しするという前代未聞の公表は、「警察の暴走」「法治国家の崩壊」として当然ながら各方面から非難を浴びている。
ではなぜ警察は、批判を承知の上で「オウムだ」と事後に断定しなければならなかったのか。彼らの論理は、私たちには理解し難い。
本書はその疑問に、間接的に答えている。
オウムではない、有力な容疑者が本書に登場する。
犯行に使われた銃弾を所持し、狙撃の腕は確かだ。
動機や資金調達には疑問が残るものの、犯行のディテールについては読者を納得させるに足る証拠が示されている。
彼をクロと断定できなくても、オウムが彼よりも疑わしいと言う根拠は乏しい。それゆえオウムを名指しで容疑者扱いしたのは、疑わしさではなく、「オウムでなければいけない」警察の「組織の論理」の表れでしかない。
警察にとって、当初の容疑者はオウムであり、途中から操作の方向性に陰りが見えても、オウムでなければならなかった。
本書を補助線として、操作の終結後に「オウムであった」とわざわざ国民に向けてPRすることは警察組織の金属疲労が限界に達していることを、読者は理解するだろう。
最終的には長官狙撃事件の白黒よりも、彼の人生を辿ることでこのような不思議な日本人がいたのだという事実に驚かされるだろう。