「謹訳」という見慣れない冠に惹かれ手にしてみた。
これまでに源氏の現代語訳を手掛けたのは、与謝野、谷崎、円地、田辺、寂聴・・・いわゆる“作家”が多い。
リンボウ先生もいちおう(失礼!)作家の肩書をお持ちだが、私にはむしろ“学者”のイメージが強い。今泉忠義博士の“謹厳忠実”な訳文に触れた経験があるせいか、「謹訳」の文字にはそんなカッチリした訳文を想像していた。
だがそれは、いい意味で裏切られた。
私なぞが百万言費やすより、帯に寄せられた檀ふみ氏の推薦文を引くのがよかろう。
氏は本書を「名訳にはならない(多分)」と、本の帯という場でなければ“(笑)”をつけたに相違ない表現で紹介している。むろん、歴代の現代語訳業に比肩するレベルに列するなどできない、と扱き下ろしたわけではない。リンボウ先生のオリジナル性が存分に発揮され、単なる“訳”に留まらない新たな“創作小説”になり得る、との期待を込めているのだ。
たしかに、「桐壺」冒頭の「いづれの御時にか」に相当する“訳文”は、「さて」という余韻ある語で始まっている。既に書き出しから、リンボウ先生の学識や想像力を駆使した“創作”が顔を覗かせているのだ。
リンボウ先生は自ら装丁にも関わり、源氏の新たな魅力を引き出そうと試みている。じつを言うと本書は、綴じ目つまり“のど”部分がほぼ平らになるくらい大きく開く構造をしている。背の糊付け部分がバラバラになりそうな不安を覚えるほど頼りなく、安っぽさが否めない。だがこれは、源氏の時代の本をイメージした造りなのだとか。なかなか野心的だ。私の感じ方が酷かったか。
過去には、想像力創作力が勝る故に“翻案”と表現された作品もある。
さて本作、“謹み”つつも自由闊達な“創作”感覚を織り交ぜ、どんな世界が展開するのだろう。書き下ろしで全10巻になるという挑戦の道程を注目したい。