筆者は「シラバス風のまえがき」において次のように表明する。
「本講義は(本書は―引用者)、情報社会時代の思想的な屋台骨をなしているポストモダニズムといかに闘い、それをいかに超えるか、という明確な実践的目的をもった哲学入門」であると。ほぉ、と思ってしまったが、読み終えてみてポストモダンをいかに超えるか、その実践的処方箋をこの本が提示したかというと、それはいい難い。
そもそもこの本、ポストモダンという思想的時代区分について触れるのは、最終講「『社会はリアリティーを失った』のか?」になってようやくである。それまでの講はどれも実践的で、もっとアクチュアルな問題系をこれまで哲学者がいかに考えてきたかを筆者なりに整理してくれていて、こちらのほうがためになるかもしれない。
肝心のポストモダンについては、あんまりやっていない。「ポスト・ポストモダニズムの問題こそが、哲学がいま取り組むべき課題」(305p)というが、そもそも「歴史の終わり」「終わりの始まり」と称されるポストモダンにおいて、それを超えるとか、新しい何かを創出する処方箋を出すことに、思想的な意味が本当にあるのだろうか。
ポストモダンの時代の哲学とは、「はい、もう終わり」と宣告された後に、それでもなおいかに生きるか、それを考えることではないだろうか。そこにこそ、ポストモダンにおいて哲学がこれまでにないほどの純度の高い思想を生み出す可能性があるのではないだろうか。
例えるならばそれは、末期がんの告知を受けた患者がする、いかに余生をつむぐか、いかに人生を終わらすか、という煩悶に似ている。予め期限が決められた生をいかに全うするか。そこで煎じ詰められる思想こそがすばらしいのであって、そこに「生き返る」という「元気な」選択肢はないのである。
また、筆者が書く以前からポストモダンに居直る人(筆者が批判する人)も、筆者のようにポストモダンを批判する人もいた。両者の意見は異なっているが、ポストモダンの存在を認めている点では、そしてポストモダンを語ることで飯を食っている点では、同じ穴の狢ではないだろうか。
本のタイトル『謎として“現代”』からして、この本は幾分かの「謎」を孕んでおり、本の企画としては判然としないところがあるが、第一講がケルゼンの法実証主義から始まるなど、なかなか変わっているので哲学入門書としてはアリかと思う。