著者の岩波新書「
ドストエフスキー (岩波新書)」がよかったので、この本も書店に並んだときすぐ買って読みました。読んだときはたいへんおもしろかったのですが、今はちょっとちがう見解を持っています。
著者が語学にすぐれたロシア文学者であり、ドストエフスキーにとりわけ深い愛着を持っていることはわかります。かつてドストエフスキーはトルストイなどに比べて作品完成度が低いとされていました。彼の小説は「思想小説」であって、文学作品としては比較的弱いと評価されていたことがあります。これはいわばリアリズム文学的評価。ドストエフスキー作品には象徴主義的な表現手法が使われており、それがわからないと作品が破綻していると思われてしまったのだと著者は主張します。著者はテクストを丹念に読み込み、作品の象徴主義的性格を解明して、そのような世間的評価を一変させました。
しかし象徴主義的解釈というのは実はむずかしいのです。著者はラスコーリニコフのイニシャルから主人公が悪魔を象徴していることを読み解いたといいますが、この解釈自体に根拠はないし、そのような判じ物が隠されていたからといって「罪と罰」の作品の価値を上げることにはなりません。重要なことは、悪魔のような所業を犯した根っからの近代人ラスコーリニコフがソーニャの純真さに触れて改心するのはなぜかということでしょう。不思議なことにラスコーリニコフが改心する場面は書かれていない。彼は、マルメラードフの死やスヴィドリガイロフの自殺のどさくさにまぎれてしばらく姿を消していたかと思うと、いつのまにか改心してもどってくるのです。謎といえばこれが罪と罰の最大の謎でしょう。
象徴主義は世紀末ロシアの文芸思潮として有名です。著者はパステルナークの「ドクトル・ジバゴ」に象徴主義を見出しているので、ドストエフスキーも同様だと思ったのかもしれません。しかし世紀末象徴主義は、フランス象徴主義文学や新カント主義哲学に影響を受けて始まったもの。ロシア正教では象徴的解釈の伝統がありますが、だからといってロシア文化自体がとりわけ象徴主義的なわけではない。ドストエフスキーはゴーゴリのリアリズムの影響を受けて文学を始めたわけで、象徴表現よりは風刺を好んだ。そう考えるとドストエフスキーを象徴主義的に解釈するのは限界があるといわなければならないと思います。
ましてや「謎解き」などという表題をつけたので、本全体が単なる判じ物に堕してしまっている。これでは象徴主義的解釈が本末転倒でしょう。