著者は、杉原千畝の謎の幾つかに、新しい視点を加えることに成功した。
その一つは、満州国外交官をなぜ辞めたのかという問題である。ノンキャリアであるが、ソビエトとの北満鉄道譲度交渉に成功し脚光を浴びた異色の外交官は、満州国のような国家でこそ活躍の場が約束されていたのではないか。なぜ、満州を棄てたのか。
著者は、橋本欣五郎大佐との確執をあげる。陸軍は、杉原に多額の報奨金を用意して陸軍の謀略の要に活用することを強要しようとした。それは、ある意味では使い捨てのスパイとして様々な謀略に加担することである。杉原の洞察力は、その場合自分がどうなるかを見通してしまったであろう。そして、この時点で、杉原には、外交官としての自身の生き方がはっきりと見えていたように思われる。
著者はまた、リトアニアのカウナスにおける「六千人の命のヴィザ」についても、外交電報の分析から、杉原が、確信犯的に外務省本省と駆け引きを行い、最大限のヴィザ発行を可能にしたことを証明した。
評者は、実は、杉原は、家族の前で慎重な姿勢をとることで、特に、妻幸子を万一の場合、「杉原が本省の指示を無視したわけではなく、やむを得ず人道的に処理した」証人に仕立て上げようとしたのではないかと考えていた。その可能性を、著者の分析は示唆している。
また、著者は、ポーランドからやってきたユダヤ難民たちが「必ずしもナチスの迫害だけではなく、ソビエトの脅威にもさらされていた事実」を強調する。杉原がユダヤ難民にヴィザを発行したのは、1940年7月末〜9月初めである。この時期は、1939年9月、独ソのポーランド分割、そして1941年6月、独ソ戦争勃発の戦間期にあたる。1939年11月にはソビエトのフィンランド侵略(冬戦争)があり、1940年にはバルト三国併合が進められた。現実には、難民はソビエトの脅威に囲まれていたのではないか、と指摘する。
評者は、杉原千畝は、この当時のユダヤ難民の現実を、誰よりもよく理解していたと考えている。戦後、アウシュヴィッツが白日の下にさらされ、強力な独立国家「イスラエル」とユダヤ系金融シンジケートが厳然と存在し、10年に1度、ハリウッドが「忘れるな!」とばかりに「シンドラーのリスト」や「戦場のピアニスト」のような名作を送り出す現在から、当時を判断してはいけないだろう。
ドイツ、ポーランドなど中央ヨーロッパを中心にユダヤ難民を作りだしたのはナチスであるが、難民に冷酷な態度をイギリスやアメリカ、フランスはとり続けた。1939年、ユダヤ難民を乗せパレスティナに寄港した「タイガーヒル号」を委任統治国イギリスは不法難民として銃撃して「撃退」した。ハンブルクを出てアメリカ保護領だったキューバまで行きながら入国を拒否され、結局引き返し、難民の大半がアウシュヴィッツに送られた「セントルイス号事件」。これらの事件に前後して、ポーランド人やリトアニア人のユダヤ人襲撃(ポグロム)も各地で頻発し、多数のユダヤ人が殺されていた。国外脱出を試みても成功するとは限らない。ドイツ、チェコ、ルーマニア、至る所でユダヤ人の財産は没収されていたが、国外に逃れても一定の金額を持たない者は入国を拒否され、引き返せば収容所行きが待っていた。それが、当時ユダヤ人が置かれた状況だったのだ。彼らは、普通に幸福を求めて生きていく権利を持ちながら、ずぶ濡れになった犬ころのように扱われていた。多分、杉原千畝は、そこに何かを見たのだ。
(この時期のユダヤ難民の状況については、当時杉原と関係したゾラフ・バルハフティック「日本に来たユダヤ難民」1992原書房、ソリ・ガノール「日本人に救出されたユダヤ人の手記」1997講談社に詳しい。彼らは、いずれも杉原と縁を分かち合った人々である。)
このときの英米のユダヤ難民忌避政策が、ユダヤ人600万人という犠牲者をもたらしたという怨嗟の声は今でも少なくない。戦前、アメリカは年間2万人以上の難民受け入れを拒否していたが、もし柔軟な難民政策がとられていたならば、これほどの悲劇は生まれなかったのである。実際にドイツを歩けば分かるが、人口10万程度の市の郊外には必ず、「ユダヤ人と政治犯のための収容所」があった。そこで起きていることをドイツ人はもちろんイギリスもアメリカも知っていたのである。この問題は、戦後アメリカ・イスラエル関係の根底にあって、両国関係を規定する潜在的意識の一つである。
だから、当時、日本の一部に独自のユダヤ観があり、外交官杉原が存在したことは国際的に評価できるものなのだ。
杉原がこの不条理を座視できなかった究極の動機(内在的論理)とは何だったのか。
本書では、杉原のインテリジェンス・オフィサーとしての一面が強調されている。佐藤優が評価するように「杉原のインテリジェンス能力のすさまじさは痕跡を残さない」ことにある。そういった評価は小野寺信少将ももらしたことがある。亡命ポーランドのグループを使って対ソビエト諜報工作に奔走した小野寺は当然杉原とも連絡があった。小野寺はNHKドキュメンタリー「日米開戦不可なり」が放送されて2,3年後、1990年代初頭に亡くなった。その半年前、評者に「杉原がやったことは・・・。彼が人道主義者と呼ばれることには・・・」と評価を留保した。このころ、「カウナスの杉原領事」を称える記事がマスコミにも現れ始めていたからである。小野寺は言葉を濁したが、夫人の百合子氏(「バルト海のほとりにて」で小野寺機関の諜報活動を描いた)が、マスコミの杉原の扱いに不満なことはすぐ見て取れた。
外務省で見せた杉原の顔は、職務に忠実な情報官としての顔であったに相違ない。しかし、「杉原」という存在から感じられるものは、「若き日に感じた不正・不実に対する怒り」の感情を失うことの無かった一人の男の姿なのである。