言語哲学大全で飯田隆も指摘しているとおり、既にここに収録されている論文より先に規約による真理で、
クワインは実質的に分析哲学の転回を革命をなしていた。 そうは言っても一般的にはこの書こそ決定的役割を果たしたとすることに何の異存もない。
では何が革命的だったか。
還元主義。物質がセンスデータとして与えられてそれと分離した切り離された論理が客観的にあり、分析的命題と綜合的命題が分離可能である。
そして擬似科学や形而上学を排した判断を哲学者はでき世界をエリートとして指導できる。
そういうドグマを破壊したこと。それが規約主義による真理や本書収拾の経験主義の二つのドグマの意味である。
論理実証主義が維持していたそういうドグマを破壊し、事実も論理もそう都合よく分離できない、 物理的に見える事実さえ、言語的社会的なもので、裸のデータに還元し、操作は不可能だ。
クワインが分析哲学の帝王になったのも宜なるかな。 しかし、今の冷静な目で見ればそれは、茶番劇だったこともよくわかる。
一つの思考実験を考える。
自然自体には法則はない。あらゆる可能性に満ちていて、必然なんか導入する必要はない。
認識だ科学だは主観の都合、勝手によるもので、客観的な認識、自然化された認識などは、語義矛盾の意味不明の代物である。
自然の中には必然はなく、あくまでも人間の都合により、またその必然はその必然を感じない他の人間に向けられたものだ、あくまでも。
繰り返すが、客観的な認識はなく、集団で共有された認識も各自のズレ、食い違いを前提として、それで初めて成り立つものだ。
人は違うから、物の捉え方が違うから認識する。
還元主義の1対1の厳密さ、リゴリズムじゃないにしろ、ホーリズムはシステムとしとは厳密な唯一の答え、充足を求める。一人の貴族や官僚の直線的束縛じゃないにしろ、全体の多人数な言語の網の目による拘束。
代議士の統治、共同主観と言う名の支配。 結局、哲学者が物理的事実を物理的事実として、世界を世界として理解し支配する。その事実は何の変更もなされていない。
世界は還元可能で支配可能。このことにはクワインは全く何の変わりもないのだ。
論理実証主義から全く何も変わっていない。
オブジェクトレベルでの1対1還元は否定してもその柔らかい支配、メタレベルでの還元主義、共同主観による支配とそれを主導する首根っこ離さない哲学者による権力、その共同主観の管理は何一つ変わらない。
ヘーゲルが対話だからと他者を従属化してないと抑圧的じゃないと言うようなものだ。
世界が一人一人違うことを認めたらホーリズムもクワインの哲学も成立しない。翻訳の不可能性とかは世界の同一性前提に完全に支配した上での寝言でしかない。
言語的社会性を強調するにしてもそれは共同主観的なある閉じたゲームであり、自由などとはかけ離れていたことがわかる。
論理実証主義的な露骨な官僚による支配を柔らかくした、より陰湿な土建屋民主主義的支配に置き換える。
その権力、利権を受け継ぐという権力闘争だとはっきりしてしまった。
世界は還元可能で支配可能。このことにはクワインは何の変更もないのだ。
例えば、百万回同じことが起こったとしても、それを法則化できるわけではない。法則化を正当化できるわけではない。
神ならざる人間、三次元の局所的な人間は四次元のあらゆる事象を確認できるわけではない。物や自然からそのままで認識が立ち上がるわけではない。
ヒュームが指摘したようにそれは誤謬である。自然からは何も見えない。ただそれに対する人間の態度が、法則を作る。人間が互いに違うから、違う物を求めているから、法則は作られる。
それなのに認識の自然化とか、ホーリズムという還元主義の誤謬を続行するクワインの病理。
物への1対1の還元はできないにせよ、我々は全体的な共同主観的な世界把握はきちんとでき、分析哲学者に従属化して支配されよ。
ちょっと考えて見て欲しい。当たり前だが、認識は自然化できない。自然をねじ曲げ、全く新しい何かを付け加えるから認識なのである。
認識は世界へのねじ曲げであり、人間一人一人、違うからこそ、自然じゃないからこそ意味があるのに。ホーリズムだ、還元主義を続行するクワインの病。
本書は分析哲学の最高の書であり、分析哲学でこれ以上の達成は有り得ない。