石原氏のように、文学研究について原理論的な思索を展開できる研究者、それも日本文学の研究者というのは希有な存在である。
本書はいわゆるテクスト論の立場によって、「読者」というものについて考察している。
ここでいう読者とは、実際に本を読んでいる生身の人間のことではない。
そうではなくて、「読者」とは小説によってその作品世界の内部(より正確には内部と外部を隔てる境界線上)に用意された、それを読むための「ポジション」、定位置のことだ(これを「内包された読者」という)。
生身の人間は、この「ポジション」に(仮想的に)位置を占めることではじめて読者になることができる。
なぜこうした回りくどい考え方をするのか。それは、(テクスト論において)小説を語っているのが作者その人ではなく、「語り手」であることに対応している。
語り手というのは、小説の内部に存在する抽象的な人称=文体のことである。小説がひとすじのまとまりを持つためにどうしても必要な機能、仕掛けであり、やはり生身の人間ではない。
(この「語り手」の措定によって、テクスト論は「作者を読む」という従来の制限から文学研究を解き放つことになった。)
つまるところ、小説とは機能としての「語り手」からポジションとしての「読者」に語られる、それ自体としては空虚な(なにせ発信者も受信者も実在の人間ではないのだから)「語り」のことである。
読書行為とは、我々生身の読者がこの「ポジション」に同化する(あるいはそれに失敗する)ことで、あたかも語り手からじかに話を聞いているかのような(疑似)体験をすることなのだ。
本がそこにあるだけでは、小説は存在しない。本があって、そしてそれを開く人間がいるとき、そこに「小説という出来事」が起こる。
このポジションに上手く同化すること、つまり「小説」という制度にうまく順応する(させられる)ようなあり方のことを、本書は「内面の共同体」と呼んでいる。
それは良く言えば「読書行為を成り立たせるための基盤」だし、悪くいえば「読書行為を支配するレギュレーション」でもある。
いずれにせよ、言語が他者との関わりにおいて生じる以上、たとえ読書(黙読)という孤独な行為であっても、そこには何らかの共同性が作用するのである。
こうした読者論を通じて、小説の読みはどのようなものになるのか。またどのようなものであるべきか。
具体的な議論は本書を参照されたい。