登録情報
|
そして結論。今度の村上訳はすばらしい。翻訳のうまさもさることながら、なにより小説家として鍛えあげた文章のセンスがいい。煩雑になるが、一例をあげてみようか。
「誕生日の子どもたち」の語り手は、アメリカの田舎町に住む少年である。きのうの夕方、ミス・ボビットがバスに轢かれた、という文章で小説は始まる。少女は、ちょうど1年前、やはり同じ6時のバスで、母親とともにこの町にやってきた。映画でいえばここがファーストシーンだ。やせっぽちの10歳の女の子ながら、もう大人のコケットリーをもっている彼女は、母親をしたがえて、バスが巻き上げていった土埃のなかから姿をあらわす。遊んでいた少年や少女たちは、このミス・ボビットの風変わりなようすに度肝をぬかれて、言葉もなく見守っている。
そのときの少女の歩くようすを、龍口は「のっそりのっそり」と訳し、川本は「気取った歩きかたで」と訳す。「つんとすまして」というのが村上訳。のっそりのっそりはないんじゃないかな、と思う。
娘の後ろからやってくる母親について、龍口は「痩せ細って毛深い女」と訳し、川本もまた「やせた、毛深い女」と訳す。村上はこの部分を、「ぼさぼさ髪のやつれた女」と訳す。「毛深い」と「ぼさぼさ髪」では、どうです、ずいぶんイメージが違うでしょう。
母親の表情についても、「この夫人は物静かな眼を持ち、空腹そうな微笑をたたえ」と龍口は訳し、川本は「おとなしそうな目をして、お腹をすかせたみたいな微笑を浮かべて」と訳す。空腹そうな微笑というものを、私は寡聞にして知らない。しかし村上訳の「押し黙った目、ひもじげな微笑み」の「ひもじげな微笑み」ならば、精神的な卑屈さの混じったうすっぺらな笑いとして、イメージすることができる。小説を読みすすめていけば、「おとなしそうな目」より「押し黙った目」のほうがこの小説にふさわしいことがわかってくる。
翻訳は時代にも左右される。「無頭の鷹」のなかに、龍口が「詩を引用して見せる妖精のような黒人の少年」、川本が「詩を引用してみせる美しい黒人の少年」と訳している部分がある。村上春樹はここを「詩を引用する若いゲイの黒人」と訳す。fairy の意味が「妖精の」から「美しい」、そして「ゲイの」へと時代を反映してかわっていった。ニューヨークの夕刻、町にたむろする人物という設定、ましてやカポーティなのだから、ここはゲイという一語がやはり適切。
村上春樹の言葉の選びかたは、こんなふうに、じつに注意深くて繊細だ。まあ、小うるさいことはこのあたりにして、あとはあなた自身で、この奇妙で物哀しい物語をじっくりとお楽しみ下さい。
|
この商品のクチコミ一覧
クチコミを検索
|
関連するクチコミ一覧
|
|
|
|