利害関心(Interesse)が、認識を誘導すると言うこと、この点に注目して、人間の認識の「解放」を図るのが本書の狙い。人間の対自然の認識、対人間の認識、そして社会全体の認識、以上三つを導く「技術的処理への関心」「実践的了解の関心」「解放へ向かう関心」の概念提出を行い、開かれた発展的な認識をもたらすための対話に基づく社会科学を構想している。だが一般には著者の行き詰まりを示す書物として評価は低く、コミュニケイション的行為論へのステップボードとなっている。不評の最大の要因は、最後の「解放へ向かう関心」に伴う方法としての「精神医と患者」のフロイト的対話の方法を社会に応用して解放を促そうとするその発想だ。対話的合意を重要な合理性と見る著者の生涯のテーマが背景にあるとはいえ、個人対個人のモデルの社会への応用は比喩以上のものではなく安易だった。が、一方で、本書は著者の図抜けた理論史理解を示す。科学主義批判としてのカントの認識論の欠陥をヘーゲルが衝いた、その妥当性が、今度は認識論までも軽視する誤った道筋へ繋がり、次代において認識論が方法論へ変わり、それが科学主義の温床へ転じていく思想史を、カント、フィヒテ、ヘーゲル、マルクス、そしてコント、マッハ、の流れに示す。殊に、ヘーゲルの精神現象学Einleitungの方法の解説は数行の下にそのエッセンスを見事に示している。その後の、パース、ディルタイの科学主義の残影を指摘するくだりもみごとだ。状況認識は正しくともその先に手詰まりを見せた惜しい逸品。