釈尊が指導して阿羅漢になった聖者は、論を興さない。なぜなら仏教修行の目的を達成したからである。そのことから後世の仏教に論書が現れた理由が理解できる。すなわち真の阿羅漢が不在となったために、修行方法の真義も失われ、目的達成ができなくなったからである。現代の私たちが釈尊の示した仏教修行の目的に同意するのであれば、失われた修行方法を再構築するために、現代に伝えられた経・律・論から釈尊の余韻を見出す必要がある。その場合、経・律・論に取り組む姿勢は自ずから異なってくる。
ブッダ釈尊の教法を、釈尊自身の論理に従って私が独自に再構築したものを次に示す。
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菩提分: 慧1 ⇒ 信 ⇒ 戒 ⇒ 勤 ⇒ 念 ⇒ 定 ⇒ 慧2
道 諦: 身1(色)⇒感情1(受)⇒ 心1(想) ⇒ 感情2(受) ⇒身2(色)⇒心2(行・識)⇒無明
八正道: 正見1 ⇒正思惟⇒正語・正業・正命⇒正精進⇒ 正念 ⇒ 正定 ⇒ 正見2
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凡夫に対する釈尊の説法の第1段階は「邪見(=因果の道理を否定すること)」の除去を目的とした、(1)「施与慈善の話」(施論=正語の準備)、(2)「戒律道徳の話」(戒論=正業の準備)、(3)「幸福な天国に生まれる話」(生天論=正命の準備)からなる。第2段階は自己中心的な「我見」を離れることを目的とした「欲の禍患と離欲の功徳の話」(正信論=正見、正思惟の準備)である。これらを理解・共感出来る者だけが、釈尊の八正道を学んで四沙門果の聖者の悟り(智慧)を得るのである。
本書の第一部を丁寧に読めば、唯識思想で釈尊に近いのは世親よりも無着、無着よりも弥勒であることが理解できる。その弥勒は『瑜伽師地論』で、1)五識身相応地、2)意地、3)有尋有伺地、4)無尋唯伺地、5)無尋無伺地、6)三摩泗多地、7)非三摩泗多地、8)有心地、9)無心地、10)聞所成地、11)思所成慧地、12)修所成慧地、13)声聞地、14)独覚地、15)菩薩地、16)有餘依地、17)無餘依地、の十七地を説く。1)と2)は六識、3)〜7)は三昧、8)〜9)は唯識、10)〜12)は門・思・修、13)〜17)は四沙門果である。ブッダ釈尊の教法と大きく変わらない。