貨幣経済社会の終焉、そして精神性を重んじる評価経済社会がやってくる…。
元来の意味での貨幣経済社会は、信用取引の発達に伴い、通貨を伴わない貨幣/信用経済社会とでも
言うべきように発達した。リーマンショック、欧州危機と、貨幣経済社会の限界が見えて
この本が予言する未来も遠くないように思われる。
だが、そんな事はないと思う。
評価経済社会のモデルとしてピクシブを考えてみよう。ピクシブはイラストや漫画などの発表サイトであり
投票、ブックマークなどを通じて、純粋に人気だけで順位が決まったり、人気が出たり底辺であったりする
ところである。
例えばピクシブに投げ銭的なシステムを導入するとか、筆者が言うような「クリエイターのパトロン」的な
システムを構築していく事で、評価経済社会として自立していく可能性もある。
ただそれは、貨幣経済社会あっての話である。
ピクシブであれば運営は法人が望ましいし、開発にあたっても「評価経済社会」を通じてといったような
ぬるい関係でシステムは作れない。
つまり貨幣経済社会が健全に成立した上で、評価経済社会が成立する余地があるわけだ。
貨幣経済社会が崩壊したら、評価経済社会というより闇市場経済社会が登場するだろう。
評価経済社会は精神性の時代…。
貨幣=カネが世俗化した今ではそうは感じられないが、元々、貨幣は魔術的なものであった。
日本では金融が制度化されたのは公出挙であり、これは神に供える初穂という風習を税金=金融化したものだ。
中世までは、日本の僧・神人・修験者などが金融・商売をするのは普通であった。
筆者の論に乗って拡張するなら、評価経済社会とは貨幣経済社会の終焉ではなく、
寧ろ貨幣そのものの魔術性が、現代の貨幣の世俗性に反逆した、とは考えられまいか。
反逆したとは言い過ぎだが、そもそも貨幣経済社会も魔術的なものであり、
その一形態(一業態と言ってもいい)として評価経済社会が登場したというのが妥当であると思う。
評価という事で言うなら、証券発行会社は格付け会社によって「評価」されるし、株式市場では銘柄は値付けされて「評価」される。
貨幣そのものも、外為という形で為替「評価」されると思う。
この評価(=価値があるために市場に捧げる)という部分が、世俗化したとは言え、貨幣経済社会の魔術的な部分だと思う。
貨幣経済社会は所有という(古い)考え方、という視点もよくあるが、そもそも市場は、自分が所有するモノを
市場に持って行く事で自分の手から離れるというこれまた魔術的な場所でもある。
例えば資本金、のような如何にも精神性のないようなものでも、戦国期以前の日本には土地に銅銭を壺に入れ
埋める事で神に捧げる(=自分の土地になる)という風習があり、これは自説だが資本金の魔術的な元祖のような
ものであると思う。
貨幣経済社会そのものの精神性、というものも、もう少し考えられてよいのではないかと私は思う。
そこで敢えて、評価経済社会を定義するなら、こうだ。
"インターネット技術によって実現したn個の他人やオブジェクトと自身の関係性の上に、貨幣を媒介させず、経済的効用そのものを互酬・贈与させる社会"
しかし、こう定義したとしても、「貨幣経済社会の亜種・一形態・新業態」と言える域を脱せないように思う。新しいものは何時だって古いのである、と言ってみる。
貨幣を媒介させるのが古い経済である、という含意が透けて見える評価経済社会である。
貨幣−評価−オブジェクトというのが貨幣経済社会であれば、
評価経済社会は、評価−オブジェクト、と直接、人間の評価とオブジェクトが接続されている、
故に人間らしい経済であるというわけだ。
FX(外為取引)というものがある。為替レート、金利差などを利用して、
通貨同士でペアを組んで取引する投資だ。
そこでは、常に通貨から通貨の取引を急き立てられ、
安全なポジション(現預金に相当するような)ものは、ほとんどない。
評価経済社会もまた、FXと同じように、安全なポジション・逃げ場・抜き…といったものがないもののように思われる。
評価そのものを相対化するのが貨幣でもある。
評価経済社会には、貨幣という逃げ場もないし、貨幣という相対化するものもない。
貨幣は、逃げ場となるからこそ、バイパスとして機能し、ストックにもフローにもなる。
実際は、評価とオブジェクトの間の関係性は緊迫して、常に評価か、オブジェクトが急き立てられる。
貨幣という緩衝材がないからだ。貨幣を中抜きするが故に、直接対峙させられる評価とオブジェクトは緊迫する。
評価は、常に何かのオブジェクトとペアを組み、レートや金利差を鞘抜きさせられるように、
追われ、追われるがような…。評価経済社会とは、そう考えると、まるで悪夢のようではないだろうか…。
以上