斎藤隆夫は粛軍演説・反軍演説で軍部を厳しく批判した立憲政治家として有名だが、その半生、思想について肉迫した著作はほとんどなかった。北一輝研究で名高い松本健一によるこの著作は、その斎藤に初めて肉迫した記念すべき著作である。
「聖戦の美名に隠れ云々」という、かの反軍演説についてはもちろん詳しい。その部分は、この本でもクライマックスとなっているが、やはり斎藤の立憲政治家としての思想形成をなす半生を記した部分に注目したい。苦学して早稲田に学び、イェール大学に留学した経験などを通じ、日本の土着の精神性に基礎を置きつつ、欧米の進歩的学説などを取り入れた「一大日本教」が必要だという認識に至ったこと、今まで明らかにされなかった加藤弘之との論争から、徹底して立憲政治の正統性を説いたことは、非常に重要なものである。これらにこそ、欧米学説一辺倒の浮ついた知識人に堕することなく、かつ国粋一辺倒の安直なナショナリストにもならない、バランス感覚に優れたリアリスト斎藤隆夫の全てがある。松本は、斎藤が反軍演説に至る必然性を論証することに成功したと言えよう。
また、ここには北一輝との類似性が潜んでいることも見逃せない。松本は北一輝の天皇機関説的発想と斎藤の天皇機関説とを詳細に比較し、極めて類似していることを論証する。これは、単に北一輝研究家の趣味によるのではない。実際には真逆の人生を歩んだ二人の奇妙な類似性は、進歩的学説に魅了されつつも、あくまで「日本」という土壌に立っていることにこだわったという両者の共通性に潜んでいる。
一方で、松本は、斎藤のリアリズムには「毒」が潜むことを指摘する。斎藤は、弱国が強国に支配されるのは弱いからだ、搾取を逃れるには強くなる他ない、それが国際政治の現実だと暴露する。しかし、この論理は、あまりにも我々にとって過酷で、受け止めがたいばかりでなく、力崇拝主義に容易に悪用される危険を持っている。これを我々はどう受け止めるか。松本の提起することは、斎藤の理解にとって避けることのできない問題点である。
観念で現実を隠蔽することを厳しく批判した斎藤には、学ぶべき点は多い(カーのイデオロギー批判の手法に通ずるものがある)。だが、そこに潜むパワーの論理の危険な側面も、合わせて理解することを忘れてはならない。それらを丸ごと受け入れた上で、望ましい思考とは何かを見つめ直すことが、読者に残された宿題である。