絵画と言う具体的「現前」を対象としているために、より鮮明に理解されやすい。
訪問 第一章から 驚くべき仕方で、ユダヤ教徒の(もしかしたらユダヤ、キリスト教徒の?)レヴィナスは、以下のように書くことが出来た。[この[〈他人〉の]現前は、私たちのもとへと到来すること、登場することに存している。このことは次のように言うことができよう。すなわち、〈他人〉の出現と言う現象は、また顔[visage]であると。或いはまた、(現象の内在性と本質的な歴史性において、いかなる瞬間においてもつねに新しいこの登場をはっきりと示すために)次のように言うこともできよう。すなわち顔の公現(エビファニー)は訪問[visage]であると。」
第二章 イメージー区別されたもの から
ニーチェは、「我々が芸術を持つのは、真理によって根底へと沈まないためである」と言っていた。しかしながら正確には、この命題が成り立つには芸術が真理に触れている限りである、と付け加えなくてはならない。イメージは、網や幕をかけるように根底の前に立てられているのではない。イメージにおいて私達は根底へと没することはしないが、逆にそこにおいて根底が私たちのもとへと立ち上がってくる。イメージの二重分離、すなわちその剥離とその切り取りは、このような根底に対する防護と根底への開示を同時に形作っているのである。