生きた隠喩⇒時間と物語⇒他者のような自己自身
で別々に主張されていたことが、この著作では、「心的外傷を伴う事件とそれに関する記憶と忘却と赦しと証言」についてを語るという形式を纏いながら一本に統合されている。つまりこの本で扱われる範囲は、個人のレベルではPTSDの被害者の記憶であり民族のレベルではホロコーストの記憶ということになる。
ということでワクワクしながら読み進めてみた。
上巻で著者は「“私が”明確な意図を以って他者にメッセージを伝達する」という立場を厳守し、ソシュール的記号論やオートポイエシス的システム論の立場とは主義を別にすることを表明し、ハーバーマスとともに「近代の主観」を擁護する立場を宣言し、歴史家の役割として忘却すべき事件と忘却はしないが赦すべき事件とを峻別する証人となることを求めた。同時に歴史家をしっかりと監視する役割を市民が負うべきだと自らの立場を位置付けている。これを承けた下巻では「他者のような自己自身」で展開された倫理感が再度とりあげられ「自己への受難」を他罰的になることなく、しっかりと喪に服しつつ受け止めるのが我々一人一人に課せられた使命であり、それによって我々一人一人が人格的に成長するのだと主張されて論が閉じている。しかしながら、忘却についての論考は著者も認めるように論考が未完になってしまった…。上下巻ともに民族としてのホロコーストの記憶を扱う内容になっている。個人レベルのそれは精神医学の範疇になるのだろうか?リクールからの答えはもはや永久に帰っては来ない。